text

□ペース
1ページ/4ページ



玄関の戸を開けると、昨日乗ってから置きっぱなしにしておいた自転車が目に入った。黒色のハンドルとサドルは朝露に濡れている。とてもじゃないがこのまま跨いだら(今は乗らないが)、ジャージが濡れてしまうことは間違いない。

(あとで雑巾で拭かなきゃな)

頭上の屋根の天井で小さな蜘蛛が一生懸命巣を張っていた。凌統はそれに掛からないように、自転車を横目に上手く避けながら外に出た。

吸い込んだ空気が冷たくて清々しい。辺りに聴こえるのは雀の鳴き声だけだ。

日中の太陽が照らす静かな情景も良いが、凌統は、明朝の人一人さえいない静寂も好きだった(畑仕事をしている高齢の方はいる)。

緩いジャージの下の紐を結び直しながら歩き始める。癖のある髪の毛は、起きてから適当に結んだものだから、少しボサボサだ。

「…………眠い」

朝が苦手な凌統は、まだ意識がはっきりしていない。冷水で顔を洗ったにも関わらず、頭がぼーっとしていた。

着いた先は近所(本当近所)の墓地前。明朝だからなのか、うっすら霧も掛かって些か気味が悪い。自分でも、何故此処をスタートとして走ろうと思ったのか。我ながら悪趣味だ、と凌統は思った。

部活を引退してから身体を動かさなくなった。それを危険だと思い、早朝5時から20分間だけでも走ろうと思ったのだ。
今は夏休みに入ったばかりである。皆せっかくの長期休業を満喫したい筈だ。夜遅くまで受験勉強に勤しむ者も少なからずいるだろうし、恐らく凌統と同じ考えの者はまずいないだろう。

「……んー」

伸びをすると、少しは眠気が飛んでいった気がした。身体中の骨がぽきぽき鳴る。

学校生活最後の夏休み。課題は普段より倍多いが、その分いつもより楽しい休みになりそうだ、と凌統はどういう基準からか勝手にそう思っていた。補修もあって学校に出なければならない日も何日かあるが、卒業すると会うことも少なくなるだろうクラスメイトと残りの時間を過ごせるとなると、それも苦にならない。

(腹減ったなあ)

そうして律儀に準備体操をしていると、これから行こうとする方向の反対側から誰かが走ってきた。
まさかあいつも俺と同じ考えじゃないよな、と少し疑念が生じる。

「げっ、興覇」
「よお」

果たしてそれは凌統のクラスメイト兼親友兼恋人の甘寧だった。普段立たせている派手な髪の毛は静かに寝せており、凌統と同じくジャージを着ていた。相手は立ち止まる。

不本意ながら、普段と違った纏う雰囲気に些か心臓の鼓動のペースが速くなってしまったのは、絶対に口に出来ない。

「あんた何してんだよ」
「見りゃ分かんだろ」
「……筋肉バカの興覇さんが体を動かしたくなって、こんな朝早くからわざわざランニングしてる」
「筋肉バカは余計だアホ。つうかお前も同じじゃねえのかよ?」
「俺はあんたとは違うっつうの。身体鈍るのが嫌だから走るんですー」
「結局同じだろ」
「…………」

普段はこのようなヘマはしないのだが、眠い上に相手の髪型が普段と違うから上手いこと言われてしまった。甘寧も、口だけは達者な公績が口ごもってる、と訝しそうにしている。

「と、とりあえずっ、俺の後ついてくんなよ!」
「はぁ? 同じ方向行くんだから無理だろ」
「じゃあ違う道行け」
「いやもう分かれ道ねえし……あ、おい! 待てよ」

突然走り出した凌統に慌てながら甘寧が追いかけてくる。暫く後ろに聴こえていた足音の主が真横に並んだのを見て、少々眉根を寄せてみせる。


.
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ