廃棄された場所
カナカナカナ……
蜩の淋しげな聲が神社の境内に鳴り続く。
葉擦れの音と、枝々の軋み。
夕暮れ独特の気配と、穏やかなざわめきが辺りを支配する。
そのざわめきの間を縫って、ザッザッザッ……と何かが擦れる音が聞こえてくる。
境内では嫗が竹箒で石畳を丁寧に、何度も何度も掃き浄めている。
何度も何度も何度も何度も何度も………。
並べられた石を削ろうかというほどに。
朱い鳥居の下では、それを眺めて少女が一人、うっそりと目を細める。
風に煽られてザンギリの白髪が靡き、着物の裾が僅かにはためく。
「いくらやっても無駄なのに」
呟きはひっそりと空気に馴染み、嫗の耳に届くことはなかった。
それでも少女は呟き続ける。
「もう何をやっても無駄なのに。此処も嘗ては神の居わす場だった。だけどもう神は居ない。参拝者も居ない。
もう既に棄てられてしまった場所」
少女は瞼を閉じ、深く息を吐いた。
「だから、もう無駄なのに」
閉じた瞼の奥には、決して短くはない自身の半生が映っていた。神社と共に歩んだ三百余年の月日を、ゆっくりと思い出す。
めくるめく季節の移り変わり。噎せ返るような深い芽吹きの春。蝉の聲谺する夏。紅に木々の色付いた秋。しんしんと白銀を積もらせる冬。そして……。
決して大きくはないこの社を訪れる、喜怒哀楽様々な表情を浮かべた人々の残像。
理由は違えど、願いは違えど、この場所の神を頼って鳥居を潜っていった人々が居たことを、少女は覚えている。どんな季節だろうが時間帯だろうが、彼らは自身の不安を消す為に、はたまた誰かの幸福を願って、足繁く神社に通ったものだ。
だが、もう居ない。誰一人として。
過疎の進んだ田舎町。人は減り、信仰は減り、賑わっていた神社は少しずつ寂れていった。
人が減り、信仰が減ったことで、神も力が弱まり、徐々に弱体化していった。
木々に囲まれたこの場所に人里から離れて建つ社は、瞬く間に人々の記憶から薄れていった。
それでも神は笑っていた。
『私の元に来なくなったのは、人々の悩みや苦しみが減ったからだろう?』
良かった良かったと、彼は笑っていた。
そんなことはないと、少女は言い出しそうになるけれど、いつもぐっと堪えて出掛かった言葉を呑み込んだ。
淋しげに笑う神に、申し訳ないと思ったから。
あれから数年。
力が弱まり、神が消失してしまってから、少女は初めて声に出して呟いた。
「そんなことはない。
世には苦痛や苦悩が溢れている。ただ人々が、頼る先を鞍替えしただけなんだよ。
この世では、誰一人として救われていない。でも、救いを求めることを止めた訳でもない。ただ、救いを求める先を変えただけなんだ。
私達は、棄てられたんだよ……?」
今は嫗が一人きり。
土地の管理者として義務的に、年に何度か掃除に来るだけ。
もう誰も知りはしない。
此処に神が居たことを。
此処には神が居なくなったということを。
ただ一人、自分だけが覚えていれば良い。
神社の境内に咲く百日紅は、静かに鳥居から離れて塒に戻る。
軈て日の沈みきる前に作業を終えた嫗が、先刻まで少女の居た場所を通って鳥居を抜けた。
咲き誇る百日紅は今や話し相手もなく、誰にも見られること無く白い花弁を広げ続けるのだった。