短編小説

□花びらは恋の香り
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 お兄ちゃんからは、時々花の匂いがする。甘いような不思議な匂いで、それを嗅ぐといつも優しい気持ちになれる。お母さんも看護師さんも気付いていないけど、私は鼻がいいから分かる。お兄ちゃんからは本当にいい匂いがした。
 お兄ちゃんは格好いい。となりのベッドのユキちゃんも言っていたから、多分、誰から見ても格好いいのだと思う。もう社会人の大人で、優しくて、確かに子供っぽいところはあるけれど、彼女がいないのがすごく不思議だ。
 ガラガラ。病室の真っ白いドアを開ける音がした。私は急いで布団をかぶり、ぎゅっと目を閉じる。枕もとに人の気配と、花のいい匂いがした。

「あれ、寝てる? 美波が大好きなアップルパイ買ってきたんだけど、持って帰っちゃおうかな……」

 頭の上から優しくて、ちょっと意地悪な声がした。起き上がりたくて、でも悔しくて、ちょっと粘ってから目を開けると、笑顔のお兄ちゃんがいた。

「おはよ、美波」

「……おはよう。どうして起きてるって分かったの?」

隣の棚の上にあるくしに手を伸ばしながら聞いた。お兄ちゃんはアップルパイの箱を開けている。こんがりと焼けた、おいしそうな匂いがした。

「俺がドア開けたとき、美波のベッドからゴソゴソ音がしたから。アップルパイ、何切れ食べる?」

「一……二切れ。あんまり食べると太っちゃうもん」

「うん、太るから、たった二切れにしようか」

 お兄ちゃんは笑ってお皿を出してくれた。

「いいの! 一か月に一度の楽しみなんだから」

「はいはい、どうぞ」

 目の前に置かれた林檎がたっぷりのアップルパイ。赤いフォークを入れるとサクッと良い音がした。

「うん、おいしい!」

 甘酸っぱい香りが口いっぱいに広がる。カスタードクリームはさっぱりしていてしつこくない。何度食べても、やっぱりおいしい。
 そんな私の顔を見て、お兄ちゃんは笑った。

「くくっ、美波、アップルパイ食べてるときが一番幸せそうだよな」

「うるさいなぁ。食べるのに集中したいから話しかけないで」

「はーい」

 ふと見ると、私の隣、一番窓際のベッドの上でユキちゃんが笑っている。目が合ったから笑い返すと、あっかんべーをされた。ユキちゃんは二つ結びで大人しそうだけど、実はかなり子供っぽい。歳は私と同じ一四で、耳は聞こえるけど、生まれつき喋れない。そんなことは関係なくて、小さい時から身体が弱い私の、一番の友達だ。
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