08/13の日記

19:39
小早川秀秋
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裏切り者で有名な、
『小早川秀秋』さん。
男子のいなかった豊臣秀吉家に養子としてやって来た。
秀吉は秀秋(虎之助)が可愛くてしょうがなく甘やかしてしまった。一時は秀吉の後継者になるのではないかと思われたが…秀吉に実子秀頼が生まれたことにより状況は一変する。
「実子が生まれた以上養子はいらなくなる」
秀吉が秀頼を溺愛すればするほど秀秋(虎之助)の立場は微妙なものになった。

秀吉は秀秋を養子にだすことを決意する。
秀吉は、毛利の宿老小早川隆景に秀秋を養子に出した、小早川隆景は内心迷惑なとおもっていたが自分が犠牲にならなかったら、毛利家にまわされてしまう。あまり 評判が良くない秀秋がもし毛利家にきたら毛利家の評判もかんばしからぬ。
隆景は自分から養子に頂きたいと、願い出るのである。

秀秋、二度目の養子である。

そうして養子として家を転々とまわされ彼の性格はさらに歪んでしまった事だろう。

遂に合戦当日秀秋は関ヶ原の南西松尾山に1万5千の大軍を率いて布陣した。

この戦いで日本の歴史の鍵を握っていたのは家康でも、三成でもなく…小早川秀秋というわずか19歳の青二才であった。

秀秋には家康、秀吉(三成の軍)どちらにも恩があったし 小心ということもありなかなか動くことが出来なかった。

それを見かねた家康は秀秋に向け鉄砲を発砲した。

これは、ひとつまちがえれば秀秋を敵においやる事になるが、家康は秀秋の小心さに賭けた。
家康の賭けは見事に当たり、秀秋は飛び上がるようにして驚いた。そして、家康を恐れた秀秋は、東軍に寝返り三成の軍、西軍の大谷隊に突っ込んだ。
関ヶ原の合戦により日本の歴史は大きな変換を迎えた。
しかし、小早川秀秋は自分がそれぼどの役割を果たしたことに気づいていない。

その後、秀秋は岡山50万石の領主となった。しかし 三成の亡霊に怯え、領国は治まらず家臣は四散した。
そして、関ヶ原合戦から2年後の慶長7年(1602)、21歳の若さで死んだ。秀秋の死因は謎である。

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