「麝香(ジャコウ)-MUSK-」
□第1章 情熱の運命 T
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―西暦2006年爽やかな風が薫る5月、兵庫県芦屋市のJR芦屋駅前―
「おはようございまーっす」
制服に着替えた俺は、勢い良くドアを開け事務所に入った。
大学3年生で学校に行く傍ら、宅急便のバイトで生活費を稼ぐ苦学生である。
シラサギ宅急便は中小企業の会社だが、俺の勤める芦屋営業所でもアットホームな雰囲気であった。
特に所長の石田さんは優しく楽しい方で、50歳の割りに気が若い。所内の人気者である。一番若い俺の事を良く可愛がってくれるのだ。
事務所内では事務員のお姉さんが3人いて、主に伝票の管理や経理、電話の応対などの仕事をしている。
所長は椅子に座り何やら難しい顔をして新聞紙を広げていた。
事務員のひとりである山崎さんが伝票の整理をしながら、ずり落ちそうになった眼鏡を人差し指で上げる。
キャリアも長く行動も敏速な彼女は今年三十路を迎えるのだ。
結婚願望はあると聞いたが、程遠く感じるのは歳より老けて見えるせいだろうか。
その山崎さんから今日の配達分の一覧表を受け取ってから一日が始まる。営業所内で仕分けされた宅配物を配送車に載せて行くのだ。
勇み足で事務所を出ようとした時、所長の甲高い独特な声が俺の名を呼んだ。
「あー、高橋君、ちょっと」
「はい、何ですか?」