「麝香(ジャコウ)-MUSK-」
□第1章 W
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釈然としないまま、俺は仕事の制服に袖を通す。事務所内の電話の音や、話し声さえ耳に入らない。
さっきの風はなんだったんだろう。幻だったのだろうか。
あれ以来、悠璃は多くを話そうとしない。出かける前のキスはしてくれたが、元気が無かった。
腑に落ちないまま、山崎さんから伝票を受け取る。
今、悠璃は何をしているだろう。気になって仕方がなかった。
「どうしたの高橋君。ぼーっとして、足が地についてないんと違う?」
山崎さんが顔を覗き込んで不思議そうに言った。
「あ、嫌、別に」
視線に気づき、ふと目をやると所長と目が合った。
所長は持っていた新聞紙で慌てて顔を隠す。
「うおっほん」
わざとらしい咳払いが聞こえた。いつもと空気が違う。
三上先輩がいなくなってから事務所に明るさが消えつつあった。
俺は帽子を深々と被り、運転席に乗り込んだ。空が少し曇り出していた。
「おはようございまーす。宅急便ですーっ」
『はーい、今行きます』
山村先生の邸宅は他の豪邸と違って、純日本風建築で趣があり玄関でさえ見ていて落ち着きがあり、心を和やかにさせてくれる。
軒のない洋館はどうもしっくりこないし風情がないように思える。
こうして見ると結構築が古そうである。長年、住まれているのであろう。