薄桜鬼
□笑顔のままで【原田左之助】
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――…
季節はすっかり春へと入り、新しい屯所にも薄紅色の桜の花びらが舞い込んでくる。
先日、見事とも言えるくらい綺麗に咲いていた屯所の桜の木には、ほとんど花弁は残っておらず、青々しい若葉がそよ風に揺れて踊っているようにも見える。
夏が近いからか、気温が高く、少し動いただけでもうっすらと汗が額に滲んでいた。
今日も暑くなりそうだな――
そんなことを思いながら屯所の廊下をのんびりと歩いていた時、廊下の角でうっかり誰かとぶつかりかけた。
「おっと…」
「あっ、す、すみません!」
間一髪激突するのは免れてほっとしていた俺に、前から来た人物は申し訳なさそうに頭を下げた。
後頭部で一つに結ってある長い漆黒の髪が頭を下げたのと同時に大きく揺れた。
「なんだ千鶴じゃねぇか。
ボーっとして歩いてたらあぶねぇぞ?
なんかあったのか?」
音が素直な分、感情が表に見えやすい。
今も、なにか考え事をしてて俺に気付かなかったのだとすぐに分かった。
そうでもなければしっかりものの千鶴が前から来た者に気付かないわけはないだろう。
「実は、土方さんに何かできることをやらせてくださいってお願いしに行ったら、町の呉服屋に行って来てほしいって言われたんです。
でも私一人じゃ屯所から出れないことにさっき気付いて…」
なるほど。それで誰か付き添ってくれるやつを探していたと言うわけか。
今の非番は確か新八、総司、俺の三人だけだった気がする。
だが、総司は相変わらず近所のガキと戯れているし、新八といえば朝飯食ってすぐに町へと飛ぶように出かけてしまっていた。
つまり、いまこの屯所にいる幹部は俺だけってことか。
「ほかに頼めるやつがいなかったんだろ?
俺が一緒について行ってやるよ。
平隊士たちにおまえを巻かせるわけにはいかねぇしな」
屯所に誰もいない今、必然的に俺が引き受けることになる。
まぁ、これから町に行こうと思っていたわけだし、そのついでに行くとすれば俺としては全く問題は無かった。
「すみません、私が少しでも役に立ちたくて自分から引き受けた仕事なのに、原田さんに手間をかけさせてしまって…」
嬉しいのと申し訳なさそうな気持ちが混ざった複雑な笑みを浮かべながら、もう一度千鶴は頭を下げた。
本当に思うが、こんなに律儀で他人を思いやる女性はめったにいないだろう。
もう少し楽に構えてもいいとは思うが、この謙虚だけれども、自分の考えを貫き通す性格が、こんな個性派だらけの集団にも好印象を与えているのだろう。
「みずくせぇこと言うなよ。
お前を自由に歩かせられないのはまぎれも無く俺たちの責任だ。
その分、外に出たいときにはいつでも俺たちを利用してくれていいんだぜ」
そう俺が言っても千鶴はまだ謙遜していたが
、さっきよりも靄が晴れてずいぶん嬉しそうな顔で再びお礼の言葉を俺に述べた。
けれども俺は気付いていた。
今の千鶴は無理をして笑顔をつくっていることを。
俺たちにいらぬ心配をかけないように…。
それが逆効果だってことにまだあいつは気付いていない。
そんな千鶴を見始めたのは間違いなく、彼女を狙って襲撃してくる鬼たちが出現してからだった。
本当に迷惑極まりない連中だな…。
そんなことを内心呟きながら、屯所の門をくぐった。