恨み辛みの果て
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「っはー…」
長時間の正座によって痺れた足を解放して、体を伸ばした。自分の体重によって塞き止められていた血液が一気に巡るのがわかった。
平成では、椅子という便利かつ楽チンなものがあったからなぁ…正座をすることなんて、そうそうないし。
そんなことを考えながら、目の前の紙束を睨んだ。事務仕事をするにあたって、俺はこの時代の文字が読めない。そのため、土井先生にいろは表を作ってもらって、現在練習中なのだ。
パタンと後ろに倒れ、天井を見上げる。
同室のハチは、生物委員会で飼育している動物達の様子を見に行った。毎日の習慣らしい。
1人の静かな空間の中で、時々聞こえてくるのは“ギンギーン”とか“いけいけどんどーん”という動物にしては珍しい鳴き声だけ。
「…じゃない」
誰かの足音が聞こえる。だんだん近づいてる…?
◇◆
寝間着のまま、廊下を全力疾走する。暗い廊下で、星の灯りだけを頼りに走っているため、何度も躓いたり、壁にぶつかった。
それでも走った。
あの人に、会いたかったから。
「っ…」
五年長屋の一室、“佐武・竹谷”と表札の掲げられた部屋からは、小さな灯りが漏れている。
息を整え、そっと襖を開けた。
「…あ」
「おお、作兵衛」
まだ事務員の制服を着たままの雅先輩が、大の字で寝そべっていた。顔だけでこちらを伺う姿は少し妖艶で、顔が赤くなる。
「なんした?」
「え、いや、あの…」
全力で来たくせに、いざとなったら何も言えない。自分の意気地の無さに、嘲笑が込み上げた。
何を言えばいい?
何を伝えればいい?
“あなたは雅先輩に似ているから愛してる”?
似てるから好きなんじゃない。
今なら、心の底から、この人を信じられるから。
「そんなとこで突っ立ってたら疲れるだろ。こっち来て座りなよ」
そう言って座布団を用意した先輩は、座り直して手招きをした。
だが俺は、座布団には座らず先輩の前に膝をつき、その薄桃色の頬に手を添えた。
突然の行動に、先輩は目を丸くしている。
「先輩、俺…っ」
「…作兵衛…?」
言わなきゃ。
この人の温もりが消えてしまう前に。
あの約束を忘れてしまったのなら、新たに約束すればいい。憎み続けてきた天からの、たった1度のチャンス。無駄にしてはいけない。
「俺はっ先輩が好きです!」
「はぇ?」
「っ…愛してるんですっ…だから、俺との約束を忘れちまった事が信じられなくて…あんな酷いこと……っごめんなさい!」
泣くな。
情けない奴だなんて、思われたくないのに。涙は次から次へと、止まることを知らずに溢れ出てくる。
嫌われてしまったのではないか。
そんな考えが邪魔をして、目を合わせられない。
「作兵衛」
「っ…」
名前を呼ばれて、恐る恐る先輩を見ると、俺はいつの間にか先輩の腕の中だった。
先輩の香りが、温もりが、更に涙腺を崩壊させる。
やはり俺は、どうしようもないくらいに、先輩が好きだ。