短編
□人間万事塞翁が馬!?
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* * *
「バージル!電車が出ちゃうよ!」
電車の発車を知らせるアナウンスとベルの音が聞こえて、名無しさんはホームを駆ける。
共に並走するバージルは至って涼しげな表情を貫いていて、汗だくで息を荒げる名無しさんはそんな彼をほんの少し恨めしく思う。
今日は朝から恋人であるバージルと、少し遠出をして買い物に出かける予定だった。
だというのに、駅への最短距離は予期せぬ道路工事で通行止めで、通る信号機には全てひっかかり、駅に着いたと思えば迷子に服の裾を掴まれた。
迷子を駅員に託したはいいが、心細げに名無しさんの服を掴んだまま離そうとしない幼子を無下にすることができず、結局保護者が迎えに来るまで一緒に待ったのだ。
ようやくホームに着く頃には、電車の発車時刻が差し迫っていた。
「うわっ……すごい人だね……」
車両は既に乗車率200パーセントを超えているのではないかと思われるほど混み合っていた。
そういえば、今日はここから数駅先にある会場で、有名グループのライブが開催されるのだった。
名無しさんはあまりの人混みに気後れしてバージルを見上げる。
「バージル……乗る?どうする?」
「……予定が既に大幅に押している。乗るぞ」
「う、うん」
バージルと名無しさんは発車ベルに急かされるようにして、満員電車にその身を押し込んだ。
人と人の隙間に体を何とか差し入れるようにして乗り込んだ途端、車両のドアが閉まる。
想像以上の圧迫感と熱気だ。
列車が動き出すと、慣性に従って体が傾く。
(うう……苦しい)
もはや自立するのを諦めた人間に体重を預けられ、名無しさんは圧迫感と見知らぬ他人と触れ合う不快感で顔を歪める。
「……名無しさん」
そんな名無しさんを人混みから庇うように、バージルが名無しさんの身を抱き寄せて、己の体に押し付けた。
名無しさんが驚いて彼の顔を見上げると、バージルは口の端をほんの少し持ち上げて笑う。
バージルの背後にはドアがある。
それにもたれているバージルは、人に囲まれている名無しさんよりも若干の余裕があるようだ。
ここから数駅に渡って、車両のドアが開くのは向かいの扉なので、動く必要のないその場所にバージルは身を落ち着けることにしたようだ。
こんな人混みの中で恋人と密着している事実が恥ずかしく、けれど庇ってくれるその行為に嬉しさを隠せない。
他人に触れ合うのはあんなに抵抗感があるというのに、その相手がバージルとなると話は別だ。
名無しさんはバージルに身を預けたまま、この心音が彼に伝わりやしないかと焦りながら電車に揺られた。
ライブ会場のある最寄駅に着くと、どっと乗客の波が動いた。
立っている乗客のみならず、座席に座っている乗客までが席を立って電車を降りていく。
先程までの混雑が嘘だったかのように、車内は唐突に空いた。
圧迫感から解放されて、名無しさんはほっと息をつく。
「バージル、庇ってくれてありがとう」
「いや」
「あ、あそこの席開いたよ。座ろうか」
恋人の手を取り、名無しさんは空いた座席へ移動しようとする。
「うっ」
その時、バージルから小さく漏れた呻き声が聞こえて、名無しさんは振り返った。
見ると、彼の長いコートの裾が列車のドアに挟まれている。
「バージル、挟まっちゃったの!?」
「……………」
空いた車内に名無しさんの声はよく通った。
乗客から一斉に視線を浴びて、バージルの眉間の皺が一つ増え、彼の頬を汗が伝う。
どうやら満員電車に無理やり乗り込んだ際、コートを挟んだまま発車してしまったようだ。
電車は再び動き出す。
バージルと名無しさんは挟まれたコートを何とかしようと引っ張るが、列車のドアは構造上そう簡単に開かないようになっている。
彼の力であれば無理やりコートを引き抜いたり、ドアをこじ開けるのは可能だろうが、その場合コートは確実に破れるし、走行中のドアを開けると列車の運行に支障が出るかもしれない。
ドアの前で二人して悪戦苦闘しているうちに次の駅へ停車するが、無情にも開いたドアは反対側の方だった。
乗り込んできた客が、座席が空いているのに立ったままでいるバージル達を怪訝そうな顔で見やって、コートが挟まれていることに気がつくと気の毒そうな半笑いで座席へ腰を下ろした。
彼の立場になって考えると、とんでもない羞恥だ。
(こ……ここは私がなんとかしないと!)
名無しさんはコートを引き抜くのを諦めて、バージルに向かって宣言する。
「バージル、待ってて。車掌さん呼んできてドアを開けてもらおう!」
「ま、待て」
がしっ、と名無しさんはバージルに手を掴まれる。
いつもの冷静な姿の彼からは考えられないが、バージルは焦りから手汗をかいていた。
その青い瞳が、「俺を置いていくな」「一人にするな」と如実に、だが実に真剣に物語っていた。
車内にいる乗客全員、バージルのコートがドアに挟まっていることに気が付いている。
そんな中で一人助けを待つ方が、彼にとっては耐え難いことのようだ。
(バージルが、あのバージルが……私を頼ってる!!可愛い!!)
困り切っている彼には悪いと思いつつ、普段クールな姿勢を崩さないバージルの意外な一面を目の当たりにしたことと、自分が頼られているという嬉しさで、名無しさんはほんの少し、いや大いにときめいた。
名無しさんは車掌を呼びに行くのを止めてバージルの方へ歩み寄ると、彼に手首を掴まれたまま、バージルと同じようにドアへ身を預けた。
バージルはホッとしたように息をつく。
名無しさんが隣にいたところで、この状況はどうしようもない。
けれど珍しく困り顔を作るバージル(と言っても付き合いのない人間から見ればただの仏頂面でしかない)を放ってはおけないのだ。
乗客は誰も口を開かない。
ガタンゴトンと線路を走る音だけが車内に響いている。
名無しさんはちらとバージルを見上げた。
彼は視線を下に落としたまま微動だにしない。
このまま、こちら側のドアが開くまで彼はこうしているつもりなのだろうか。
それとも、車掌が見回りにくるのを待っているのだろうか。
名無しさんの手首を掴んでいるバージルの手は未だ熱い。
ふと、手持ち無沙汰になった名無しさんは窓の外に目をやった。
電車はいつのまにか街中を外れ、のどかな自然の中を走行している。
「……あ、バージル見て!」
唐突に声を上げた名無しさんに、バージルが億劫そうに顔を上げる。
車窓から見える眼下には、青色の花畑が広がっていた。
バージルのアイスブルーの瞳に映る、一面の青。
「ネモフィラの花だ!」
春の抜けるような快晴の下で、青色のネモフィラが見事に咲き乱れている。
すごい、綺麗と声を上げる名無しさんを見て、バージルはその仏頂面に僅かに笑みを浮かべた。
電車はゆっくりとホームに吸い込まれていく。
「あ」
名無しさんとバージルは二人同時に声を上げた。
ホームの位置からして、ドアが開くのはバージルのコートが挟まれている側だ。
音を立ててドアが開き、挟まれていたコートの裾がようやく外れた。
二人して無言で開いたドアを見つめていたが、閉まる直前にバージルが名無しさんの手を取って引っ張り、ホームへ降り立った。
名無しさんの背後でドアが閉まる。
電車がゆっくりと動き出し、二人をその場に置いて走り去って行く。
突然の彼の行動に驚く名無しさんに、バージルは振り返らぬまま告げた。
「……見に行くぞ」
「えっ?」
「ネモフィラだ。近くで見たかったんだろう?」
「でも、買い物は……?」
「どうせ大幅に押している。なら一時間や二時間程度大して変わらん。急ぐ用事でもない」
そう言いつつ、バージルはホームをずんずん進んで行く。
思いがけず彼と爽やかなデートをすることになった名無しさんの顔が、徐々に緩み始めた。
名無しさんはバージルの指に己の指を絡ませ、機嫌よく言う。
「今日はいい日だね!」
「工事で遠回り、信号に捕まり、迷子に懐かれた上俺のコートがドアに挟まれたのが、いい日か」
皮肉たっぷりに言うバージルに、名無しさんはこの日一番の笑顔で言う。
「でも、そのおかげでこうしてバージルとデートできる」
「……お前のその前向きな思考、実にめでたいな」
「褒め言葉として受け取っておくね!」
バージルの素直ではない物言いも、全て可愛く思えてしまうくらいに名無しさんは彼に惚れ込んでいる。
彼はあまり自分の感情を表に出したがらないが、それでもたまにこうして名無しさんに付き合ってくれるし、電車で名無しさんと離れ難かったように、彼にとっても自分はきっと特別な存在なのだ。
それに何より、恋人繋ぎした彼の指先が、名無しさんに応えるようにぎゅっと握り返してくるから。
「バージル、愛してる!」
「……知っている」
笑顔を浮かべ、寄り添う恋人たちをネモフィラの花だけが見つめていた。
***あとがき***
診断メーカーの#キャラクターの日常の恥ずかしい瞬間を妄想してみるをお借りしました。
「電車にギリギリ間に合ったと思ったら、ドアに服の端が挟まってしまったバージル」がお題に上がって激萌えしたので書きました。
バージルにこんな一面があったら可愛いいいいいい!!
そしてこんな呟きに乗ってくださった絶対的silverのSarima様、本当にありがとうございました!
これを執筆しているのは夏なのですが、当初は夏らしくネモフィラではなくひまわり畑に行く予定でした。
ですが、真夏にあの青いコートの描写ってなしだよなあと思い直し、急遽春が舞台のお話になったのでした。
いつもクールなバージルの慌てる表情を見てみたい!
ギャップ萌えってとてもいいものですよね!