鏡の中の黄昏蝶 Another Story
□1.君が生きる明日を知りたい
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* * *
魔帝の手から逃げ延び、魔界と人界の狭間で漂うこのみは、先ほどの黒い騎士が目の裏に焼き付いたまま離れなくて、その場から動けずにいた。
あれは、きっとバージルだ。
このみが呼んだその名前に反応して、剣を振り下ろす手を止めた。
そうする意思があったかどうかは分からないが、空間を切り裂いて、このみをここへ逃がしてくれた。
このみは己の体から伸びる赤い糸を見つめる。
このまま糸を伝っていけば、恐らくいつかはダンテの元へ戻ることができるだろう。
けれど、魔帝に操られたままの黒い騎士は……一体どうなったのか。
バージルには二度も助けられた。
なのに彼を置いて、ダンテの元へ戻るのか?
そうしてのうのうと生き延びて、ダンテに合わせる顔はあるのか?
彼は魔帝に殺される運命なのかもしれない。
ここで彼を助けることで、未来に思わぬ代償を払うかもしれない。
けれど、今のこのみは時空の歪みを移動できる力があって、もしかしたら彼の運命を変えることだってできるかもしれなかった。
この世界はパラレルワールドとして無限大に広がっている。
ならば……彼が生き残る未来だって、あっていいはずだ。
このみは拳を作って、自分の胸に当てた。
自分は何をしたい?
自分に何ができる?
このみはコートの裾を持ち上げて、硬い外殻に覆われた自分の足を見た。
ダンテの血の影響で半分悪魔と化した足。
ネロから、悪魔に傷付けられて彼の右腕があのように変化したと聞いた。
その右腕を使って戦うネロの姿を思い出す。
――彼みたいに、戦えなくてもいい。
魔帝の手から、バージルを連れ出すだけの力が欲しい。
「……お願いダンテ、力を貸して」
そう呟いて、このみは決意を込めた表情で前を見据えた。
* * *
魔帝から繰り出された一撃を受け止めきれず、閻魔刀の刀身に亀裂が生じる。
腕に、力が入らない。
その場に踏みとどまれずに、バージルは後方に吹き飛ばされた。
自身の血でぬるついて、閻魔刀が手のひらから滑り落ちた。
受け身を取ることもできず、バージルは地面に叩きつけられる。
せめて閻魔刀だけは、と手を伸ばすが、届かない。
魔帝の手に力が集まる。
きっと次の攻撃で、自分は命を落とすだろう。
バージルは己に迫る一撃を目を背けずに睨みつけていた。
口元には笑みさえ浮かんでいる。
ああ、ここまでか、と思った。
父を超えることは、できなかった。
バージルに向かって迫った一撃が、すぐ側の地面を穿った。
魔帝が攻撃を外したのではない。
誰かがバージルの服の襟を掴んで跳躍し、すんでのところでかわしたのだ。
バージルが目を見張って顔を上げると、フードで顔を隠した小柄な人物が見えた。
体格からして女のようだった。
先程までこの場にはバージルと魔帝しかいなかったはずだ。
2人に気付かれずに女が現れた事実が、バージルには信じられなかった。
いきなり現れた闖入者に魔帝も虚を突かれたのか、一瞬攻撃がやむ。
その隙を縫うようにして、女はバージルの襟を掴んでその体を引きずりながら、閻魔刀に向かって一直線に走った。
閻魔刀を手に取った女は、脇目も振らず一目散にその場から逃げ出す。
大の男を引きずって走る女の速度は、並大抵のものではなかった。
バージルも舌を巻く速さだ。
まるで走ることだけに特化したようだった。
背後から魔帝の攻撃が次々に襲い来るが、それを避けながら女は逃げる。
長いコートが翻って、硬い外殻に覆われた足が見えた。
――悪魔が、自分を助けた?
離せ、とバージルは訴えるが、女は聞こえていないのか黙殺したのか、その足を緩めることはない。
走っている途中で、閻魔刀の鞘を見つけた。
バージルが魔帝に挑む直前、捨てたものだ。
女はそれに気づいて、鞘を回収した。
やがて魔帝の攻撃が届かないところまで逃げ切ると、女はようやくバージルの襟を掴んでいた手を離した。
フードを外して、虫の息のバージルの顔を覗き込む。
「バージルさん」
女の顔に見覚えがあった。
悪魔ではない。
魔帝に挑む直前、魔界で顔を合わせた不思議な雰囲気の人間だった。
確か閻魔刀で次元の狭間へ送り込んだはずだったのに、何故戻ってきたのか。
出会った時は、他の人間とは雰囲気が異なるとはいえ、悪魔ではなかったはずなのに、彼女の硬質化した足は一体何なのか。
それに、勝敗は既に決していたとはいえ、魔帝との戦いを邪魔された。
負けた者には死あるのみである。
自分はそれを受け入れるつもりだったのに、この女に水を差された。
「余計なことを……」
そうバージルが呟くと、自分のものによく似た、青い瞳から涙が零れ落ちる。
この女は、何故泣くのだろう。
まさか出会ったばかりのはずの自分を案じて、涙を流しているのか。
まるで理解できない。
「……死なないで、ください」
懇願するように、女は言う。
「……何故?」
単純に疑問に思って、バージルは問う。
自分とこの女は、他人同士だ。
バージルはこの女がどこで死のうが生きようが気にも留めないし、それは彼女だって同じだろう。
女の目から零れ落ちる涙が、バージルの頬を濡らす。
生温いその水が不快ですらあった。
「あなたは、ダンテの家族だから」
その名を聞いて、バージルは不愉快になる。
そういえば、この女はダンテと知り合いのようだった。
双子の弟は人間として生きることを選んだ。
悪魔として生きることを決めた自分とは、決定的に違う存在。
その縁は、この手で切り捨てたはずだった。
「わたしは、あなたに助けられたから。その借りを返すまで、絶対に、死んじゃだめです……!」
閻魔刀で次元の狭間に送り込んだことを言っているのだろうか。
あれは、ただの気まぐれだ。
本当に人界に送ることができるかどうかは分からなかったし、現にこうして女が戻ってきた今、助けたというには語弊がある。
「何を……訳の分からないことを……」
呆れて笑うバージルとは正反対に、女はますます涙を流す。
とうとう目を開けていられなくなったバージルのまぶたの裏に、ただ涙を流す女の姿が焼きついた。