鏡の中の黄昏蝶 Another Story

□3.その、手の温度は
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* * *


ぐちゃ、とこのみの足元で柔らかい何かが潰れるような音がした。


「ひいいいい!!バージルさん、な、何か踏みました!!」


引きつるような悲鳴を上げて、このみはバージルの腕にしがみついてくる。
不思議と鬱陶しく思う事はなく、ひたすら慌てる彼女が愉快ですらあって、バージルは少しからかってやろうと思った。


「これは……何かの肉片か、内臓のようだな」
「ひえっ」
「まあ今のは冗談だが」
「ええ……」
「魔界に群生する果実の一種のようだ」


バージルは足元にいくつか落ちている、熟れすぎた柿のような果実を拾い上げる。
押すと柔らかく、中から果汁が滴ってくる。


「バージルさん!こんな時に、そんな冗談なんて!からかうなんて!ひどい!ひどいです!笑えないです!ぜんぜん面白くないです!」
「そうか。俺にはジョークの才能はなかったようだ」


頭から湯気を出しそうな勢いで怒るこのみに、バージルは口の端に笑みを浮かべながら言う。

このみはしばらくバージルをなじっていたが、やがて語彙が尽きたのか大人しくなった。
バージルの手の中にある果実の匂いを嗅いで、尋ねる。


「このくだもの……食べられますか?」
「……毒はないようだ。食用に問題なさそうだが……お前は食べない方がいい。戻れなくなる」


魔界にある果実。
半魔であるバージルであれば大丈夫なものでも、このみのような人間が口にすれば、人界に戻れなくなる。


「……よもつへぐいっていうやつですね」


このみは何か思うところがあるのか、そう呟いたきり静かになった。

果実は辺りに生い茂る木に生っている。
腕を伸ばしてバージルはそれをいくつかもぎ取り、自分用に確保した。

これでしばらくはしのげるとして、問題はこのみの食料だ。
すぐに人界への道が見つかればいいが、もしそれが難しいようであれば、このみの目的は変わってくる。

せめて飲料水は確保しなければ、この魔界で長期間耐えるのは難しい。
かと言って、この魔界で人間が飲めるような水などそうそうあるわけない。


バージルが考えながら歩いていたその時、一歩足を踏み入れた先で悪魔特有の臭気が濃くなる。
このみも何か感じ取ったのか、鼻を押さえて辺りに首を巡らせている。


「悪魔……近くにいます?」
「身を隠しているようだが……臭いで判別できる。右前方300mといったところか」


傷ついた閻魔刀と、このみというお荷物がある上で無闇矢鱈に戦闘はしたくないので、バージルはなるべく敵との邂逅を避けていた。
今回も迂回しようとして、このみを連れて徐々に後退する。
以前ならば、悪魔を前にして逃げるなんて事は考えられないことだったが、このみに出会ったことで自らの心境に変化が生じたらしい。

あと少しで果実のなる木の群生地を抜けるというところで、背後から急速に禍々しい気配が迫ってきた。


「……気付かれたか」


バージルはすぐさま足を止め、逃走を断念した。

目の見えないこのみだけを先に逃すのは難しい。
ならば、いっそこの場で迎え撃った方がいいと考えての判断だった。


「このみ、その辺りで屈んでいろ。不用意に動くな」
「は、はい……」


指示に従って、このみはその場でしゃがみこんだ。
バージルが自分用に取っておいた果物をこのみに押し付ける。

バージルは自らの魔力を練り上げ、幻影剣と呼ばれる青白く光る剣を空中に生み出し、このみの周囲に展開させた。
このみを守るように、幻影剣は彼女の周りを円陣を組んでまわる。

それを確認したバージルは、その場にこのみを置いて悪魔の元へ走り出した。


フォースエッジもベオウルフもない今、バージルが扱えるのは亀裂の入った閻魔刀と、幻影剣のみだ。

閻魔刀はあまり用いたくないので、バージルは先手必勝とばかりに幻影剣を悪魔の方へ向かって飛ばした。

木々に阻まれて姿までは見えなかったが、呻くような鳴き声が辺りにこだました。
何かが落ちるような重たい音と、地響きがバージルに伝わる。
どうやら幻影剣は命中したようだ。


バージルは敵に命中した幻影剣に向かって、瞬間的に移動する。
エアトリックと呼ばれる、幻影剣と組み合わせてバージルが独自に編み出した技だ。


敵の頭上に現れたバージルは、一瞬の邂逅の間に悪魔を視認する。

サメやクジラに似た、巨大な魚のような悪魔だった。
テメンニグルにいたリヴァイアサンよりはだいぶ小さいが、それでも家一軒丸呑みできそうな大きさを誇っている。


バージルは更に幻影剣を複数出現させ、それを悪魔の目に向かって射出した。
それを全弾受けた悪魔は、鋭い鳴き声を上げながら身を踊らせる。
尾びれがバージルを襲うが、彼は跳躍して難なくそれを回避し、その間も幻影剣で悪魔に攻撃を続ける。

痛手を負った悪魔は身をくねらせ、その場から逃げ去ろうとする。

とどめを刺すためにバージルはそれを追おうとするが、目が見えないこのみを残していることを思い出して踏みとどまった。

逃げる背に向かって幻影剣を打ち込むが、やがてその姿も見えなくなり、バージルは思わず舌打ちする。


……本当に、面倒だ。

面倒なのに、彼女を厭う気持ちになれないのは、何故だろう。


別に助けてくれと頼んだ覚えはない。
このみが勝手にバージルを助けて視力を失っただけだ。

けれど、先程果実を踏んで驚き、バージルに縋り付いてきた時のように、盲目のこのみが魔界で頼れるのは自分しかいない。

視力を失うことになった原因はバージルにあるのに、彼女がバージルを信頼しているというその状況と、彼女との他愛ないやりとりが、なぜか嫌ではないのだ。
打算を抜きにして、バージルが誰かと行動を共にするなんてことは、以前は考えられなかったのに。


胸の内側がもやもやする。
バージルは己の胸に手を当てて、その不思議な感覚に首を傾げた。

しばらくそうした後、バージルはこのみを迎えに行くために踵を返した。



言いつけ通り屈んで小さくなっていたこのみは、バージルの足音を聞きつけてビクリと肩を揺らした。
バージルはこのみの周囲に展開していた幻影剣を消す。


「……俺だ」


短くそう言うと、このみはほっとして、その顔に笑みを浮かべた。


「良かった、無事だったんですね。怪我してないですか?」


このみの言葉に、バージルは面食らう。
何故このみ自身ではなく、バージルの心配をするのか理解不能だ。


「……俺があの程度の悪魔に遅れをとるわけがない」
「でも、バージルさんもまだ万全の状態じゃないし、閻魔刀も傷がついてるって言ってたから」
「お前に心配されるほど落ちぶれたつもりはないが」


無愛想なバージルの言葉にも、このみは笑っている。
何故笑うのか、バージルには分からない。


「ただ、深手は負わせたがとどめはさせなかった。……逃げられた」
「もしかして、わたしがいるから戻ってきてくれたんですか?」


このみにそう尋ねられ、バージルは一瞬口ごもる。
事実を指摘され、ひどくいたたまれない気持ちになって、とっさに否定の言葉を吐き出す。


「……はぁ?何を、馬鹿なことを言っている。思い上がりも甚だしいな」
「バージルさんは、どうしてわたしを助けてくれるんですか?」


――そんなの、そんなもの、バージル自身が一番尋ねたい。


白灰色に濁った瞳が、バージルの方を見つめる。

彼女は目が見えないはずなのに、心の内側を覗かれているような感覚がして、落ち着かなかった。


このみに借りを返すだけ。
悪魔に母を殺された無力な自分を、思い出したくないだけ。


それだけだ、それだけのはずなのに。


「……俺がどうしようと、俺の勝手だ」


結局、そんな言葉しか出てこなかった。
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