短篇集
□一退、一進
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微かなもの音を俺の耳は逃さなかった。
姉ちゃん一人しかいないはずの下の階で、確かに、話し声。
ベッドの上で寝そべって雑誌をめくっていた俺はその手をとめた。
タタタタ……
ほら、近づく。
誰も見ちゃいないのに気づかないふりをしてせんべいに手をのばした。
「お待たせー総悟お邪魔しまーす!」
「待ってねーしうるせーしお邪魔だとわかってんならさっさと出てけ。」
「うわあ〜おいしそうなもの食べてるね」
「おっかしいな日本語が通じねーや」
さっきまでドアのところで叫んでたくせに次のときにはもう俺の隣からひょいと顔をだして手元を覗き込んでいた。
「わたしにも一個ちょうだい」
「やでい」
「うわーい、ありがとう」
「ねぇ、マジなんなのお前なんで日本人なのに日本語通じないの」
ぼりぼりとせんべいを幸せそうに頬張る桜子に俺はため息をついた。
「何しにきた、用件を早く言え」
「うん!
明日から学校でしょ?春休みの宿題見せてー!」
「いい加減にしろィ自分でやれ」
「数学見せて欲しいんだけどーあ、これ?」
「何こいつ殴ってイイ?」
机につんであった教科書の山を崩して数学を引っ張り出す桜子。
勝手に写しはじめやがった。
「おい、てめェはそうやって人のモン写してるからいつまでたっても馬鹿なんだよ。
しかも勝手に写すな」
「総悟の解いた数学っていっつも完璧だからさ〜」
「簡単じゃねーか」
「総悟のクラスは担当月詠先生でしょーわかりやすいって評判じゃん
わたしも月詠先生がよかったなぁ」
ふんふんと鼻歌交じりにとく桜子に俺は額に手をやる。
ちらりと時計に目をやるともう10時を回っていた。
「それ終わったらとっとと帰れよ」
「はいはーい」
聞いてるのか、聞いてないのか。
こいつはこういう奴だ。
人の思惑に気づかねェ、善意にも悪意にも頓着しねェ。
これらが無意識に行われる上、俺の側にいれば安全だと思ってる節があるからタチが悪い。
上機嫌で問題を解く桜子のTシャツに短パンというファッションからすらりと伸びる白い四肢がやけに目についた。