華信(仮)
□第十一話 千色紬絲
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井戸端に向かい、水を汲んで頭から思い切りかぶった。
火照った身体が冷水によって温度をさげ、重たかった頭が幾分か軽くなった気がした。
「最近、頑張ってるね」
ふいに入り込んだ女の声に、ゼンははっとし背後を向いた。
聞いたことのある声だと思った矢先、後ろにいた女の姿に、くらっと倒れてしまいそうな気に襲われる。
「チナ……」
呼ばれるとチナは、後ろに一本で高く揺った長髪を揺らし、笑顔をこちらに向けた。
やわらかな笑顔が、水で冷えた頬を再び赤く燃えさせていく。
「……名前、覚えててくれた」
「うん」
短く返事をして、もう一度水を汲んだ。
「熱いの?」
「うん」
そっけなく言葉を返すゼンを見、それでも笑顔でチナは声をかける。
大きな水音が、ゼンの身体をたたいた。
「……最近、あの人と一緒にいないのね」
項をまわすと、髪から滴る水が遠くに飛んだ。
首を傾げて見せると、チナは目を泳がせながら言う。
「あの……女形の」
「……ジュウ?」
チナはこくりと頷いた。
そうして、何かに向かい決意したようにもう一度頷くと、顔を上げてゼンを真っ直ぐに見つめる。
「今、時間ありますか」
「……みんなの素振りが終わるまでなら」
チナは瞬間、明るい笑顔を散りばめて喜んだ。
秋風に乗せて椿の香りがふわり鼻をかすめていく。
二人は道場の四隅に配置されている蔵の、一番奥にある扉を開けた。
がっしりとした扉は開けるのは時間がかかるが、一度閉めてしまえば話し声など術を使わない限り聞こえそうにもなかった。
ゼンは切望していたチナとの出逢いを、純粋に喜べずにいた。
こうして狭く暗い蔵の中にチナと二人きりでいる今も、ジュウの顔がちらついてとても浮かれてなどいられない。
チナはそれを察したように、やさしく包むような言葉をつむいだ。
「祇豪に、この間……帰りました」
あ、とゼンは言いかけて飲み込んだ。
そういえば、祇豪へ帰るよう手配したのが始まりだったと虚ろに思い、次にギンジが帰っていないことに無意味さを痛感した。
「あの。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げられて、ゼンは項に手をまわしながらどう言えばいいか迷い、その末ぶっきらぼうに頷いた。
それを見たか見ないかの早さで、チナはまた口を開く。
「でも、なんで」
チナはふと言葉を選ぶように口を閉じ、しばらくしてから言った。
「どうして私を帰らせてくれたのですか」
一番返答に困る問いかけだった。
ギンジに取られたくなかった。
ただその一心で、ギンジから身を遠ざけてやりたいと思った。
──誰にも、触れさせたくなかった。
誰かが椿の香りを一瞬でも愛おしく思うことがあるならば、それだけで胸が熱く猛り、どうしようもない怒りが溢れてしまう。
ゼンは言葉につまり、おもむろに手を伸ばした。
言葉の代わりは、いくらでも思いつく。
──どうして。
涙があふれそうになった。
どうしてチナにはそうしてやれて、ジュウにはそうしてやれなかったのだろう、と。