華信(仮)
□第十五話 ──ゼン完結
4ページ/4ページ
春が訪れると、チナの元へ歩んだ。
あれきりずっと、ジュウの元から逃げることはなかった。
躯も心も乾き切っていた。何をしても心に大きく空いた穴は埋まることを知らない。
「……チナ」
荷をつくるチナに、後ろから声をかける。
一拍の間をおいて、チナが変わらずの笑顔で振り向いた。
「……着崩れくらい、直しなよ」
「チナ、行かなくてもいいんだ」
ゼンの気持ちは不思議でいっぱいだった。
ジュウの願いは叶ったのだから、チナが遊里へ向かうことなどしなくてよい。
それなのに、当の本人は小さく首を振るばかりで、一向にゼンの言うことを聞かなかった。
「……ええよ、私が居たら、ジュウ様の気が散る」
「それでお前が心を散らすことはない」
ふふ、とチナが悲しい笑みを浮かべる。
「よく兄様も言っていた……」
──兄様。
チナからその呼称を聞くたびに、胸の奥がきり、と痛む。
「……そのことだけど」
「……戦?」
「ああ」
なら、とチナは腰を起こしゼンの目前に寄った。
からっぽの心が反応するのは、チナを目の前にしたときだけだった。
小さな火が灯るように、胸があたたかくなる。
「ちょうどええ。遊郭なら何も関わらん」
目をそらし、ぎゅうと瞼をとじた。
なぜ、残ろうとしてくれないのだろう。
「だから……」
「それ以上言わんで」
唇にそっと指を添えた。
お互いの息がかかるほど近く。
耐えきれず唇を合わせた。
腕が知らずと背へ回る。
チナの小さな肩が、少し震えていた。
何度も聞いた。
「それでいいのか」と。
チナは深く頷く。
理解ができなかった。
けれどわかることがあった。
チナはきっと、自分の為にそう言っているのだ、と。
このまま遠目でしか想いを馳せられないのなら、居るも居ないも同然で。
ジュウと共に時を過ごしても、ジュウの気持ちはチナへの嫉妬心へと変わってばかり。
けれどこのままでお互いに救われるとは到底思えない。
何度も聞いた。
それでも、チナは深く頷いた。
「必ず……必ず迎えに」
──言いたくなかった。
そのような言葉は、保障できる言葉でも、確かな約束にも満たない。
わかっているのだろう、わかっているのに、どうしてそのような切ない顔を残すのか。
「来てくれるん? ほんに、来てくれるん」
互いに、わかっていた。
すぐに切れてしまうような、弱い誓いだと。
けれども、躯抱く強さだけ、心だけ、チナの身に込めた。
椿の香りを、思い出さなくてもいいほどに。
これ以上、傷つけない為に。
誰かを傷つけるのは、もうこれだけに。
初めて、強く誓い、進んでいくことだと思えた。
二人の抱擁を飾るかのごとく、降りもしなかった雪がちらちらと舞う。
心が埋まったのはそれきり。
これから向かう大きな闇に、チナは連れていけない。
戦が終われば、新しい時代が訪れれば……。
この躯が朽ち果てるまでに、もう一度チナを抱くことができれば。
──今は、それを願うだけでいい。
ほどかれた糸はゆらり揺れ、あとは褪せていくだけだった。
≪ゼン、完結≫