竜の小説集

□卒業論文「後漢から西晋までの将軍号の変遷」
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1.後漢
1)将軍とは

 『後漢書』の志第二十四によると、

将軍、不常置。本注曰、掌征伐背叛。比公者四…第一大将軍、次驃騎将軍,次車騎将軍,次衛将軍。又有前、後、左、右将軍(1)。
(訳)将軍は常置しない。本注に曰く:職掌は背叛を征伐する。公(三公)に比肩する者は四つ:第一に大将軍、次に驃騎将軍、次に車騎将軍、次に衛将軍である。また前、後、左、右将軍がある。

と、ある。この文章から将軍は背叛を征伐することが職務であり、常置のものではないこと、後漢書に記されている将軍号は大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、前後左右の八つであること、大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍の四つは司徒、司馬、司空の三公に比肩する地位であることが分かる。
 また、同じく『後漢書』の志の第二十四の百官一に

蔡質漢儀曰…「漢興、置大将軍、驃騎、位次丞相、車騎、衛将軍、左、右、前、後、皆金紫、位次上卿、典京師兵衛、四夷屯警戒。
(訳)蔡質の漢儀に曰く…「漢が興ると、大将軍、驃騎を置き、位は丞相に次ぎ、車騎、衛将軍、左、右、前、後は皆金印紫綬で、位は上卿に次いだ。京師兵衛を典じ、四夷に屯して警戒する(2)。

とも書かれている。丞相とは三公の一つで、後漢でいう司徒を指し、金印紫綬という臣下で最高位の印綬を許されていることからも、相当の権力を持った役職であることが分かる。

 なお、大庭脩の著『秦漢法制史の研究』に将軍について詳しく書かれており、そこには将軍という官職は、史記、漢書、後漢書をはじめ漢代の史料に普遍的に見られる官職であるのに、制度上の説明を加えた記事が乏しく、実態の捉えにくい官職であり、後世の政書でも諸軍に関する記載は少ないと述べている(3)。
 その上で、前漢においての将軍の権限について周亞夫の挿話を用いて述べており

  「将軍令曰、軍中聞将軍令、不聞天子之詔」といい、あるいは「将軍約、軍中不得驅馳」といって、皇帝さえも軍中においては将軍の統制に従わねばならず、軍士には将軍の命令の方が皇帝の詔に優先することすら許されるのに注目したい。すなわち、将軍は一度任命されると任命者の統制の枠外に出ることすら可能になるという大幅な独立性と権限が与えられる、それはもとより戦いに勝利をもたらすためにほかならない(3)。

ということから、体制内にありながら常に職権として体制外に立ち得る職という考えに同意し、それ故に将軍という官職が常置でなかったのだと考えられる。とはいえ、これはあくまで前漢の将軍という官職についてであり、後漢の将軍とは些か異なる。
 後漢の将軍を説明するために、引き続き『秦漢法制史の研究』から引用する。

  後漢において目立つ特色は将軍に対して節を持たしめることがあげられる(49。

とあるように、後漢の将軍の特色として節を持つことが挙げられている。節というのは簡単に言ってしまえば独自に将兵を処罰できる権限であり、基本的には将の将、つまり大将軍等のその軍の総司令官に与えられるものだ。この中で前漢との違いを交えて

  少なくとも前漢時代の将軍は、将軍がそれぞれ独立性を有し、将軍以下の使者が節を持して将軍のその独立性を破ることはあっても、将軍が節を持することは平帝即位の時までなかったと思われる。将軍は本質的には臨時の官であったし、節を持する使者も、本来は臨時のことであった。それは後述する宋書にいうように、「漢では使を遣わすに始めて持節あり」というのが原則であり、後漢末の中平二年の場合でも生きていた原則であると思う。それではこの場合、車騎将軍張温はなんのために節を仮されたのであろうか。それは皇帝の代理として、この時の漢の諸軍を統率監督する最高司令官として、他の諸将、すなわち破虜将軍董卓、盪寇将軍周慎を鑑するためであった(5)。

と書かれており、この考えが正しいならば、それまでは将軍が節を持たないのが原則で、後漢末のある時期までそれが続いていたことが伺える。
 しかしながら、後漢末の分裂争乱の時代に入って将軍が多く作られるようになった時、将軍をさらに統括する将軍に節を持たせるようになり、それが一般化したのである。
 その例として『後漢書』の董卓伝には李傕が車騎将軍となって節を持ったことや、呂布が王允に奮威将軍に任命されて節を持った文章が書かれており、魏の文帝の頃になると都督諸州軍事という名称が正式のものにとりあげられて制度化していったのではないかと思う(6)。
 『秦漢法制史の研究』の中でも、『魏志』の列伝に王凌が征東将軍仮節都督揚州諸軍事、許允が鎮北将軍仮節督河北諸軍事という例を挙げ、同様の結論を述べている(7)。

2)四将軍と前後左右将軍

上記の八つの将軍号が後漢書に記されているものであるが、そもそも後漢代の将軍号は常置のものではないため征伐等や反乱などが行われる都度に任命され、上記以外の高位の将軍号や雑号将軍などがあることは明記しておく。それらは後述とし、まずはそれぞれの役割や由来を説明したい。
 まずは、大将軍だが『通典』巻第二十九の職官十一に

大将軍、戦国時官也。楚懐王ト秦敗楚、虜其大将軍屈匃是矣。漢高帝以韓信為大将軍。武帝又置。初、武帝以衛青数征伐有功、以為大将軍、欲尊寵之、故置大司馬官号以冠之(8)。

(訳)大将軍は戦国時代の官である。楚の懐王が秦と戦い、楚は秦に敗れ、大将軍の屈匃を虜にした。漢の高帝は韓信を大将軍とする。漢の武帝、また大将軍を置く。初め、武帝は衛青に何度も征伐をさせ、功があったので大将軍とし、これを尊寵しようと欲した。故に大司馬を置き官号はこれを以て冠した。

という記述が見られることから、少なくとも戦国時代には存在した官であることが分かる。『後漢書』や『晋書』にも似たような記述が見られることからも、大将軍が三公に比肩するとまではいかないが、歴史のある役職であることがわかる。大将軍は後漢の時代において位の高さが変化しており、『後漢書』には四代の和帝の時には三公の下、後漢末には三公の上にあるという記述も見られる(9)。
 また、将軍の役割は上記で述べた通り征伐であり、大将軍は最高位であることは言うまでもないが、大将軍の地位が外戚によって占められていることが多いことに注目したい。『後漢書』にも

和帝即位,以舅竇憲為車騎將軍,征匈奴,位在公下;還複有功,遷大將軍,位在公上;複征西羌,還免官,罷。安帝即位,西羌寇亂,複以舅ケ騭為車騎將軍征之,還遷大將軍,位如憲,數年複罷。自安帝政治衰缺,始以嫡舅耿寶為大將軍,常在京都。順帝即位,又以皇后父、兄、弟相繼為大將軍,如三公焉(9)。
(訳)4代和帝が即位すると、外戚の竇憲を車騎将軍にして、匈奴を制圧させたが、三公の下位であった。竇憲に軍功があったから、大将軍に遷らせ、三公の上位となった。竇憲は再び西羌を征伐して、帰還した後に罷めた。安帝が即位すると、西羌が寇乱してきたから、また外戚のケ騭を車騎将軍にして征伐させ、帰還してから竇憲と同じように大将軍とした。数年で罷めた。安帝の時代から政治は衰欠した。皇后の外戚の耿寶を大将軍としたが、ずっと洛陽にいた。順帝が即位すると、皇后の父・兄・弟が大将軍を継承した。三公と同格にまで、「将軍」号が格上げされた。

 とあり、外戚が大将軍の地位についていたことが分かると思う。これは政権を握る上で軍権を掌握することが大きな位置を占め、外戚と宦官の権力争いにおいて大将軍という地位が重要であったことに他ならないのではないかと思う。
 それを補完する上で、『秦漢法制志の研究』に書かれている考えを引用するが、

  内に対しては皇帝権の重要な部分である賞罰権を委譲され、外に対しては皇帝の爪牙として背叛する者を伐つという将軍の官は本質的に常置さるべきものではなかった。ところが戻太子の反乱に苦しんだ武帝は、自己の死に臨んで霍光等を将軍の官につけて幼帝の保護をさせようとした。新帝の即位に際し、親近の者が将軍となり不慮に備えることは武帝以前よりも存在したが、例のない皇太子の反乱とその直後の高帝の死、しかもその皇太子は国内のどこかに生きている可能性があるという状況下では新帝の護衛に大きな兵力を必要としたし、幼年の皇帝が立ったため、後見としての将軍を必要とする期間も長かった。その上昭帝が早くに崩ずるという事態も加わったために将軍は常置の官のようになってしまったのである(10)。

とあり、外戚が権力を握るために、または幼年であったり血の繋がる皇帝を支えるために、権限と兵力という物理的な力を持つ大将軍になっていたのである。分かりやすい例を挙げるとすれば、三国志等で有名な何進が挙げられる。外戚として大将軍になり、甥である劉弁を皇帝にするべく動き、宦官という朝廷内で権力を持つ存在に対し、董卓等の各地の有力者を集めて軍事力で対抗しようとしたのは典型的な外戚の一例と言えよう。

 次に驃騎将軍だが、『秦漢法制史の研究』に武帝の時代に霍去病が任じられたことが始まることは申すまでもないと書かれている。私自身が調べた史料の範囲では分からなかったが、断言して書かれていることからも、それが根拠のあることなのは間違いないだろう。
 驃はつよい、いさむなどの意味を持つので、言葉の意味としては強い騎兵、勇む騎兵になり、実質的な役割から生じた将軍号ではなく、美称の将軍号であり、最初は雑号将軍であったと思われる(11)。

だが『後漢書』志第二十四の職官一には大将軍に次ぐ位だと書かれており

世祖中興,吳漢以大將軍為大司馬,景丹為驃騎大將軍,位在公下,及前、後、左、右雜號將軍眾多,皆主征伐,事訖皆罷。明帝初即位,以弟東平王蒼有賢才,以為驃騎將軍;以王故,位在公上,數年後罷(12)。
(訳)光武帝が中興すると、呉漢が大将軍を以て大司馬となり、景丹が驃騎大将軍となり、位は公の下にあった。前、後、左、右、雑号将軍がとても多く、皆主に征伐を職掌とし、事が終われば皆罷めたのである。明帝の初め即位して、弟の東平王劉蒼が賢才を有することから、以て驃騎将軍とした。王である故をもって、位は公の上にあったが、数年後に罷めた。

という文章も見られることから、将軍の説明でもした通り常置ではないこと、三公に匹敵、または三公に次ぐ地位であることが分かる。


では、何故最初は雑号将軍の一つであった驃騎将軍が、大将軍や車騎将軍に並んで三公に比するような将軍号になったのであろうか。それは、将軍号が特定の人物に固定してくるからである。
理由としては二つある。一つ目は将軍に任命されるにあたり、その下には一定の組み合わせによる人事関係が出来上がることである。実質的な役目がある将軍号等は特にそうではないだろうか。楼船将軍のように水上に関する将軍号に任命された場合、そこに集まる者もそれに特化するようになり、任命された者が失態か亡くなりでもしない限り、その将軍号に固定されるようになるのだ。原則としては常置ではないが、武帝時代に匈奴に対する軍事行動が多発したが故に、そうなったことは想像できなくもない。
二つ目は大きな功績をたてたからである。驃騎将軍が霍去病より始まることは先述したが、そもそも驃騎将軍という美称の将軍号に任命されるに至ったのはそれに相応しい結果を出したからであり、その点については『秦漢法制史の研究』第四篇の第一章に

  ところで、票騎将軍霍去病が赫然たる武勲をたて、大将軍衛青に比肩したという事実は周知の通りである。その功により元狩四年、武帝は大将軍衛青、票騎将軍霍去病に共に大司馬の位を加え、令に定めて「令驃騎将軍秩禄與大将軍等」とした。これによって「丞相大司馬大将軍奉賤月六萬御史太夫奉月四萬」とある律に準じて票騎将軍も取り扱われるようになったが、同時にこの令が後世にいたるまでを規制し、票騎将軍という本来雑号将軍の一つにすぎない将軍号が、公に比する将軍に加えられる法的根拠となったと考える(13)。

と語られる通りである。

 車騎将軍と衛将軍についても同様で『通典』巻第二十九職官十一に

後漢章帝即位、西羌反、以舅馬防、行車騎将軍、征之。銀印青綬、在卿上、絶席。還復罷。和帝即位、以舅竇憲為車騎将軍、征匈奴、始賜金紫、次司空(14)。
(訳)後漢、章帝が即位する。西羌が反乱を起こしたので、舅の馬防を行車騎将軍としてこれを征伐した。銀印青綬、卿の上に在り、絶席。還ってまた罷めた。和帝が即位し、舅の竇憲を車騎将軍に任命し、匈奴を征伐した。司空に次ぎ、始めて金紫を賜る。

漢文帝始用宋昌為衛将軍、位亞三司(15)。
(訳)漢の文帝が始めて用い、宋昌を衛将軍とした。位は三司に次ぐ。

という文章が見られ、三公に次ぐ高位であることが分かる。

この二つの将軍号は、驃騎将軍のような美称の将軍号ではなく、実質的な役目によってできた将軍号である。車騎であれば、当時の戦で使われていた車騎を統率している将軍であり、衛はまもるという言葉通り皇帝の親衛を意味する将軍ということだ。初めて衛将軍に任命された宋昌が南北軍を鎮撫したことからも、それが正しい解釈ではないかと思う。
 また、車騎将軍の地位の高さを裏付けるものとして、先述の外戚と大将軍の関係を語った際に引用した『後漢書』の文章を見て欲しい。竇憲にしろ、ケ騭にしろ車騎将軍を経て大将軍に至っており、大将軍に次ぐ位であること、多少の誇大表現ではるが、大将軍になる者が任命される名誉ある将軍号ではないだろうか。
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