竜の小説集

□卒業論文「後漢から西晋までの将軍号の変遷」
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次に、前、後、左、右の四将軍について説明したい。『通典』巻第二十九には

前後左右将軍皆周末官、秦因之、位上卿、金印紫綬。漢不常置、或有前後、或有左右、皆掌兵及四夷(16)。
(訳)前、後、左、右、将軍は皆周末の官であり、秦はこれによる。上卿の位で、金印紫綬。漢は常には置かず、或いは前後が有り、或いは左右が有る。皆、兵を掌り四夷に及ぶ。

とある。
 ただ、同資料には光武帝が建武七年に前後左右将軍を省き、魏がまた置いたとも書かれているのだが、光武帝以降から魏までの間にも前後左右将軍のいずれかに任命された者がいるので、資料の信憑性に些か疑問が残る(17)。

四将軍は常置の役職ではないが、四夷に及ぶとある通り、前、後、左、右に配置される軍のことではないかと思われるが、それが都を中心とした配置なのか、軍団においての配置であるのかは分からない。
とはいえ、方角的な意味ならば東西南北になるはずなので、前の部隊、後の部隊といった具合に、軍団における配置がもともとの意味だと考えられる。そこから推測するに、四つの位置に将軍を配置し、それを統率するのは将の将でなければならない。つまり、大将軍の統率する中でそれぞれの位置を担当する将軍が前後左右の四将軍ということになる。
私がこのような考えに至ったのは『秦漢法制史の研究』第四篇の第一章の第五節に前後左右将軍について書かれているのを読んだからである。

  漢王朝になってから前後左右将軍がおかれたのは元朔六年に前将軍趙信、後将軍李廣、左将軍公孫賀、右将軍蘇建を置いたのが初見で、その時には中将軍公孫敖もあった。また元狩四年には前将軍李廣、後将軍曹襄、左将軍公孫賀、右将軍趙食其を置いたが、両度ともに大将軍衛青に率いられている。したがって当初は大将軍の統率する全軍のうちでの前後左右の配置を示す名称という実質的な意味を持っていたものと思われる(18)。
  百官志の将軍の條によれば、大将軍の営は五部にわかれ、部ごとに校尉一人と軍司馬一人とがいるが、校尉を置かずに軍司馬のみの場合もある。しかし、衛青伝をみると将軍を以て大将軍に従うとある者が多数あり、「其の裨将及び校尉にして侯となる者九人、特将となる者十五人」と記している。特将とは顔師古の注で「独別に将となりて出征する者」であるとする。最初衛青に従って校尉或いは将軍として出動していて、戦功によって後に独りだちの将軍となったもののことである(19)。

 前、後、左、右が美称でとは考えられない点、大将軍が将を率いる将である点、上記の衛青の例から見ても、この考えは正しいと思われる。

3)四征将軍、四鎮将軍、四安将軍、四平将軍

四征将軍とは四つの方向である東西南北を冠した将軍号である。役割としては文字通りそれぞれの方向にいる敵を征伐することである。『後漢書』の百官一に四征将軍の記述は見られなかったが、『晋書』の職官に以下の記述が見られた。

四征興於漢代,四安起於魏初,四鎮通於柔遠,四平止於喪亂,其渡遼、淩江,輕車、強弩,式揚遐外,用表攻伐,興而復毀,厥號彌繁(20)

(訳)四征将軍は漢代に興り、四安将軍は魏の初めに起こり、四鎮将軍は遠方の地を手懐け、四平将軍は喪乱を収める。渡遼 淩江 輕車 強弩等の将軍号ははるか遠くの地にてその威を表し攻伐に用い、使ったと思ったら無くなり頻繁にその将軍号は称された。

 上記の文章には四征将軍、四安将軍、四鎮将軍、四平将軍と書かれているが、漢代に置かれた事が書かれているのは四征将軍のみである。『通典』巻第二十九の職官十一にも漢と魏で置かれたこと、それぞれ任命されるのは一人であることが読み取れた(21)。
 次に、四征将軍の位階であるが、先に述べた八つの将軍号に次ぐものであったと考えられる。あくまで後漢代はという枕詞がつき、後漢代の中でも序列の変化があった可能性もあるが、概ねその認識で間違っていないのではないかと思う。その証拠として『通典』の四征将軍に関する文章に

征東将軍、漢献帝初平三年、以馬騰為之、或云以張遼為。征西将軍、漢光武建武中、以馮異為大将軍。征南将軍、漢光武建武二年置、以馮異為之、亦以岑彭為大将軍(22)。
(訳)征東将軍、漢の献帝は初平三年に馬騰を、或いは張遼を任命するよう言った。征西将軍、漢の光武帝が建武中に馮異を征東大将軍とした。征南将軍、漢の光武帝が建武二年に置き、馮異をこれに任命し、また岑彭を征南大将軍とした。
と書かれている。光武帝の功臣である岑彭と馮異や、後漢末の群雄である馬騰をそれらの役職に任命していたことから、決して低い地位ではなかったはずである。
 次に、四鎮将軍を説明したいと思うが、四安将軍と四平将軍も参考資料が同じの為、まとめて話したい。『通典』巻第二十九の職官十一から該当する箇所を抜粋した。

鎮東将軍、後漢末、魏武帝為之。
鎮南将軍、後漢末、劉表為之。
鎮西将軍、後漢劉表為之。
安東将軍、後漢陶謙、曹休並為之。
安南将軍、光武元年、以岑彭為之。
安西将軍、後漢末段煨、魏鍾会、石鍳並為之。
平北将軍、漢献以張燕、晋以阮坦亦為之(23)。

 いずれも後漢末ではあるが、後漢の時代に四鎮、四安、四平将軍があったことは間違いないと言える。後漢に設置されたのか、それ以前から存在する将軍号なのかは断定できないものの、四征将軍同様に高位の将軍号ではないかと思う。
 また、四征将軍の役割が征伐であるように、『晋書』の職官の四征将軍について述べている記述から四鎮将軍は遠方の地を鎮める(懐柔する)、四平将軍は喪乱を収めるのが役割であることが分かる(24)。

4)雑号将軍

 雑号将軍とは目的や美称、役職に応じて置かれた将軍号であり、『通典』にも歴代雑号将軍は凡そ数百有ると書かれており、全てを時代ごとに把握するのは不可能に近い。故に、同資料及び『正史三国志英傑伝』別巻の『三国志全人名事典』等から判明する限り列挙する。

上将軍、騎将軍、楼船将軍、横海将軍、材官将軍、弐師将軍、軽車将軍、伏波将軍、中軍将軍、強弩将軍、奮威将軍、度遼将軍、積射将軍、建威将軍、九武将軍、征虜将軍、武牙将軍、横野将軍、捕虜将軍、鷹揚将軍、討逆将軍、破虜将軍、討虜将軍、威虜将軍、建徳将軍、殄寇将軍、盪寇将軍、破羌将軍、奮武将軍、輔国将軍、游撃将軍(24)。

上記の資料から後漢代にあったと思われる雑号将軍を挙げたが、それだけでも三十を超える数がある。書かれていたのは前漢の武帝の頃から置かれる伝統的な将軍号や、誰が任命されたか判明しているものだが、雑号将軍は説明の通り美称や目的に応じて置かれた将軍号で、例として幾つかの将軍号の意味を説明すると

破羌:羌(異民族)を破るの意。
輔国:国を輔(たす)けるの意。
建徳:徳を建てるの意。

となり、周辺の異民族に対する征伐を行い、後漢末には多くの群雄が争った情勢を考えると、この時代だけでも雑号将軍の数はそれなりの数があるのではないかと想像できると思う。

 なお、自称の将軍号として黄巾の乱の主要人物である張角、張宝、張梁の三人がそれぞれ天公将軍、地公将軍、人公将軍と自らを称したのが有名であるが、さらに特異な将軍号として無上将軍というものがあり、『秦漢法制史の研究』の第四篇の第二章で『後漢書』何進伝を用いて触れている。

  五年天下滋乱、気を望む者おもえらく、京師まさに大兵あり、両宮流血すべしと、大将軍司馬許涼、仮司馬伍宕、進に説いて曰く、太公六韜に天子兵を将いる事有り、威を以て四方を厭すべしと。進以て然りとなし、入りて之を帝に言う。是において乃ち進に詔し、大いに四方の兵を発して武を平楽観下に講ず……帝躬ら甲を擐け、馬に介し、無上将軍と称し、陳を行ぐること三匝にして還る(25)。

これは自称等ではなく、後漢末の皇帝である霊帝が自ら称したもので、『後漢書』巻八の霊帝紀にも帝自らが無上将軍と称し、兵を平楽観に置いて武を講じたと書かれている。無上というのはこれ以上は無いという美称の意味なのだろうが、並ぶものなき頂点に立ち、天と同義である天子(皇帝)が将軍を称したこと自体が前代未聞であり、沖帝の時に反乱を起こした賊が自称した将軍号であるため、自ら権威を貶めてしまったと言える。極めて特異な将軍号と言えよう(25)。
無上将軍である皇帝をトップに置き、その下に西園八校尉が組織されるわけではあるが、それらが実際に何かを行ったということもなく、暫くして霊帝も亡くなることも考えれば、将軍の権限や役割を理解せず、むしろその将軍号によって王朝の弱体化を示してしまったと言えよう(25)。
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