text (八雲)
□Irreplaceable you (3)
1ページ/1ページ
とにかく、早くここから離れなくちゃ!
晴香は帰路を全力で走っていた。ここまで必死に走ったのは小学校の徒競走以来かもしれない。運悪く今日はパンプスを履いてきてしまった上、もう脚が限界を超えていたが、そんな事気にしてる場合じゃない。
震える脚を、気力で奮い立たせ走りつづけると、やっと見慣れたマンションが見えてきた。
勢いを弱めることなくエントランスに駆け込むと、エレベーターを待つのももどかしくて階段を駆け上った。
とにかく、声が聞きたい―――
晴香は鍵を開けて部屋に飛び込み、急いで再び鍵を閉めた。そこから休む暇なく部屋に転がるように向かうと、部屋のカーテンを全て閉め、そこでようやく、糸が切れた様にベッドに倒れ込んだ。
しばらくそのまま息を整える。頭の汗が髪の毛を伝ってベッドに染み込んでいくのを感じた。
ある程度呼吸が整うと、素早く飛び起き鞄の中から携帯を引っ張り出した。
祈る様に電話をかける。
プルルルルルル
お願いっ――
プルルルルルル
お願い、出て…っ――
プルルルルルル
八雲くん…っ―――
プルルルッ
出た!!―――
「もしもし八雲くんっ!?」
八雲が何か言いかけたようだったが、思わず叫ぶ様に遮ってしまった。
[君は本当にうるさいな。もう少し静かに話せないのか]
「今、どこにいるの!?」
嫌味たっぷりに非難されたが、そんな事気にしてる場合じゃない。
[コンビニの帰りだ]
そう答える八雲の声はどこか不満げだ。
「なんにもなかった!?怪我とかしてない!?変な人に声かけられたりとか…」
[…君じゃないんだ。そんな事あるわけがないだろう…]
心底呆れたとでも言う様に、八雲が溜め息をついた。
そりゃそうだ。たかがコンビニまでの行き帰り、昼間で、しかも大人の男の八雲がそんな目に遭うなんて事、心配する方が馬鹿げてる。
だけど、確認せずにはいられなかった。
最初の一言が若干聞き捨てならないが、そんな事どうでもいいくらい、晴香は心の底から安心した。一気に身体の強張りが解けるのを感じる。
「そっ、か… そっか。そうだよね…」
よかった…
自然と零れた言葉は、音になったのかどうか分からないほど小さなものだった。
しばらくの沈黙の後、電話の向こうから盛大な溜め息が聞こえてきた。
一体どうしたのか?さっきの緊張がまた蘇る。
[…で?何があった?]
「へ?」
思っても見なかった問い掛けに、思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
[君は言葉も通じなくなったのか?何があったのかと聞いている。…またトラブルか?]
「トラブル」と聞いて心臓が跳ね上がった。
いつも思うが、八雲の、勘というか推理力というかは本当に凄い。多少不自然であったかもしれないが、今の会話だけで私に何かあったのだと分かってしまうなんて。
でも、今回だけは本当に、八雲に頼るわけにはいかないのだ。
「ト、トラブルなんて…!別になんでもないよ!!」
[…何度も言うが、君は自分が思っている以上に嘘が下手だ。いいから、こじれる前に話してみろ]
自分が嘘をつけない事は十分承知している。今のだって、全然説得力がないのは明らかだ。
けど―――
「ほ、本当にトラブルじゃないってば…。…ただ……」
晴香はぎゅっと唇をかんだ。今思い出しても寒気がする。何か言わなきゃと努力はするが、上手く文章にならず、震える口からは意味不明な言葉だけがこぼれる。
[…ただ、なんだ?]
痺れを切らしたように発せられた、ぶっきらぼうな言葉。けど、どんな言葉だろうと、八雲の声はいつも晴香を安心させてくれる。体の震えが、嘘の様に治まった。
私は、この人を守りたい―――
「…ただ、部屋に行ったら八雲くんがいないから…ちょっと不安になって…ただ、それだけだから…」
半分嘘で半分本当。本当は「それだけ」じゃない。けど、彼が部屋にいなくて不安になった事は、嘘なんかじゃないから…。
[…言っただろう。もう僕は君に黙ってどこかに行ったりしない]
「え…?」
[どこかのお節介に泣かれるのは面倒だからな。…だから、不安になる必要もない]
「八雲くん…」
ずるいなぁ…
今までとは打って変わって、優しさを含んだ声。優しい言葉。八雲の優しさは、いつでも突然で、不意打ちで…。
八雲の言った言葉が、凄く嬉しくて、そして、悲しかった。
[…分かったか?]
「…うん」
零れそうになる涙を、必死に堪えた。
「…それじゃあ、もう、切るね」
名残惜しいけど、自ら会話の終わりを告げる。電話の向こうからは、またぶっきらぼうな返事が返ってきた。さっきまでの優しい声が夢の事の様だ。
「八雲くん…」
今まで本当に―――――
「ありがとう」
そう告げると素早く電話を切った。なぜか自然に涙が溢れた。止まらなくて、声を上げて泣いた。
・:*:・゚'★,。・:*:・゚'☆・:・:*:・゚'★,。・:*:・゚'
目が覚めると、もう部屋の中は真っ暗だった。
泣き疲れて眠ってしまったらしい。ベッドから起き上がると、頭がズキンと痛んだ。
とりあえず頭をすっきりさせたい。
電気をつけるのもなんだか億劫で、真っ暗な部屋を勘を頼りにバスルームへ向かった。
蛇口を捻って頭からシャワーを浴びる。熱いシャワーを浴びるうちに、段々と頭が覚醒し始め、昼間の出来事が鮮明に蘇った。
晴香は手早く身体を洗うと、急いでバスルームを後にした。
バスルームを出ると、むわっとした空気が襲ってきた。窓を締め切っていた上、エアコンも点けずにいたのだから当たり前だ。
電気をつけると、テーブルの上に乗っているエアコンのリモコンを手に取り、冷房のスイッチを入れた。ゆっくりと、涼しい風が横長の口から吹き出される。
晴香は、ほっと息をつくとベッドに腰掛け、鞄の中から白い封筒を取り出した。
昼間、八雲の部屋の前に落ちていた封筒。
震える手で中身を取り出すと、そこに写っているものに再び眉をひそめた。
白い封筒の中身は十数枚の写真だった。どれも自分が写っている。大学のカフェテリアで微笑んでいるもの、マンションから出る途中を捉えたものと、その状況は様々だったが、そのどれもがカメラ目線ではなかった。
盗撮写真――――
サスペンスドラマなどでよく見るが、その対象が自分となると、かなり印象が違う。
震える指をなんとか動かして、一枚一枚写真をめくる。最後の一枚になって、晴香の眉間の皺が一層深くなった。封筒に入っていた十数枚の写真の中で、最も晴香を恐怖に陥れた、一枚の写真。
それは、大学で撮られた写真だった。笑顔の晴香と寝ぼけた目をした八雲が、並んで歩いている。
情景だけは、ほのぼのとして幸せな雰囲気だったが、その写真は幸せとはかけれていた。
赤いペンで大きく描かれたバツ印。それは八雲の体に殴るように付けられていた。そして、その横に同じペンで書かれた赤い文字。
『晴香ハ、俺ノモノ』
「…っ」
恐怖で震える身体をぎゅっと抱き締めた。唇をきつく噛む。そうしないと怖くてどうにかなってしまいそうだった。
八雲くん―――――
恐れていた事が起きてしまった。以前からずっと考えていた事。信じたくない事実。
私は、彼の重荷になる――――
この間の事件の時もそうだ。八雲を救うつもりでいたのに、結局七瀬美雪に捕まって人質になってしまった。
その前の事件の時も、その前の時も、数えだしたらキリがない。いつも、いつも、彼には迷惑ばかりかけてきた。
そして今回、それが具体的な形となって表れた。
この写真達を見る限り、晴香が何者かに狙われているのは確かだろう。けれど、そのせいで八雲が危険な目に遭うのは筋違いだ。
晴香と八雲は恋人でもなんでもない。八雲の中で、自分が「大切な人」に位置づけられている事は、この間の事件でなんとなく分かった。けれど、そこまでだ。悲しい事だが、晴香と八雲は結局は他人でしかない。
それでも私は、八雲くんが好きだから…
「だから、守るって決めたんじゃない…」
晴香は、震える声でそう呟くと、写真を再び封筒に戻した。
守る。そんな大それた事を言ったって、自分に出来る事なんてたかが知れている。絶体絶命の八雲を、命からがら助けるなんて事、彼曰わく「のろま」な晴香が為せるわけがない。
だけど、それを防ぐ事なら、私にでも出来るはず。
犯人の中で、八雲が晴香の何になっているかは分からない。それでも、八雲の存在が犯人にとって面白くないのは確かだ。
だから私は、犯人の狙いを彼から外す。彼と私が、赤の他人だと犯人に分からせる。
それが、私が出来る守り方。
「…大丈夫。きっと…うまくいく…」
晴香は、ベッドに仰向けに寝転がると目を閉じた。
ドーナツ…、食べてくれたかな……
昨日の夜、悪戦苦闘しながらも、あいつのために頑張って作ったそれ。少し形がいびつになってしまったが、味はかなりの自信作だった。
本当は、一緒に食べようと思って持って行ったのに。結局、全部を八雲にあげる羽目になってしまった。
でも、まぁいっか。
晴香は、八雲がまだ入院中の頃の事を思い出した。
お見舞いにと持って行った、手作りドーナツ。「僕は腹を壊したくない」だの「入院を長引かせる気か」だの、散々皮肉を言われたが、なんだかんだ言って結構食べてくれた。
美味しいとは一言も言ってくれなかったけど、かなり分かり難くはあったが、また食べたいと言ってくれた。
『ドーナツは日持ちするからな。退院した後にまた持って来てくれてもいい』
まったく、素直じゃないなぁ…
あの時言われた台詞と、照れ隠しなのか急に不機嫌になった八雲を思い出し、晴香は小さく微笑んだ。
.