text (八雲)

□Irreplaceable you (7)
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 「晴香!」
 「!?」

 自分の名前を呼ぶかたい声に、晴香は我に返った。瞬間、周りの喧騒が一気によみがえる。

 慌てて顔をあげると、美樹が怪訝そうに晴香の顔をのぞき込んでいた。

 ああ、そうだ。私、美樹とお昼を食べてたんだった…。

 キョロキョロと辺りを見渡して、晴香は自分が今おかれている状況を思い出した。ここは大学のカフェテリア。

 「どうしたのよ?ボーっとして…」
 「え?あ、あぁ…、なんでもないよ」

 晴香の顔の前で手を振る美樹に、晴香は曖昧に笑ってみせた。その表情が、美樹の顔をさらに曇らせる。

 「…全然食べてないじゃない」

 美樹は晴香に視線を留めたまま、よく手入れされた細い指で、晴香の前に置かれた手付かずのランチトレーを指す。

 「た、食べるよ!今食べる!」

 晴香は慌ててフォークを手に取り、もうすっかり冷えたグラタンを無理やり口に含んだ。咀嚼して飲み込むが、グラタンの味を感じることはない。

 晴香は観念したように溜め息を吐くと、握っていたフォークをトレーの上に放った。

 「…うん、…最近、食欲ないの」
 「…ここんとこ顔色悪いもんね… ねぇ、なにかあったの?…大丈夫?」

 もう一度溜め息を吐いて素直に認めると、美樹は露骨に心配そうな表情をみせた。晴香はそれに、首を振る。

 「平気。ごめんね、心配かけて」

 そう言って笑う晴香は、どう見ても平気じゃない。美樹はその態度に眉間のしわをさらに深くし、何かを言いかけ口を開いたが、ふと口をつぐみ、晴香以上の大きな溜め息を吐いてうなだれた。

 晴香の性格を充分理解している彼女は、今自分がなにを言っても、晴香はなにも答えないという事を静かに悟ったのだ。

 「……まぁ、そう。なら、仕方ないけど…じゃあせめて、食欲がない時にそーゆーの頼むのだけはやめなさい」

 そう言って美樹は、一口分だけ減ったグラタンを指差す。晴香それに、苦笑いを返した。

 「以後、気をつけます…」
 「まったく… ほら、じゃあ早くそれ戻してきな。どうせもう食べないでしょ?」
 「うん…」

 もったいない気もしたが、晴香は素直に美樹の言葉に従った。正直、今は何ものどを通る気がしない。

 トレーを手に立ち上がった晴香に、弁当箱を布巾に包んで鞄にしまった美樹は、トイレに行くと伝えた。濃いめの化粧を好む彼女には欠かせない、いつもの化粧直しタイムだ。

 カフェテリアの出入り口を待ち合わせ場所に決めて、晴香と美樹は席を立った。








 晴香はトレーと食器を指定の場所に戻し、小さく溜め息を吐いた。俯いたまま、待ち合わせ場所の出入り口までトボトボ歩き出す。

 友達にまで気を遣わせてしまった。その事が、晴香の心を更に重くした。

 洗いざらい全てを話してしまいたい本心と、それを許すまいとする理性が、心の中で衝突し、軋んだ音をあげる。不意に涙が込み上げ、晴香は慌ててまばたきをくり返した。

 すると、ちゃんと前を向いて歩いていなかった事が災いして、肩に軽い衝撃を覚えた。痛みを感じることはない程の接触だったが、晴香は慌てて頭をさげた。

 「す、すみませんっ!」
 「…ちゃんと前を向いて歩かないからそうやって人とぶつかるんだ」

 ………え?

 頭上から降りかかる懐かしい声に、晴香は呆然として顔をあげた。相手の顔を見上げ、目を見開く。

 「……八雲くん…」
 「…久しぶりだな」

 ぴょんぴょん飛び跳ねた、寝癖だらけの黒い髪。年中変わらない、洗いざらしのYシャツとジーンズ。そして、光を含んでキラキラ輝く、この世でもっとも美しい、赤―――

 見間違うはずはない。目の前に立って晴香を見下ろす男は、晴香が心の奥底で求めてやまなかった、八雲だった。

 一週間以上ぶりに八雲の顔を見て、再び涙がこみ上げてきた晴香は、それを八雲に悟られぬよう、慌てて下を向いた。

 「う、うん!久しぶり!元気だった?」

 努めて明るく、声が震えないように。晴香はうるさく鳴り響く心音を数えることで、理性を行動へと繋いだ。

 「…そうだな。どっかのトラブルメーカーがやって来ない分、有意義に過ごせているかもな」

 晴香の言葉に、八雲は相変わらずの皮肉を返してきた。そんな皮肉さえ今は愛おしい。けれど同時に、言外に含まれた彼の本心も感じ取れた。


 一週間以上も顔をださないで、一体なにをしてたんだ?



 「はは…」

 結局晴香は、彼の皮肉に対して妙な笑い声しか返せなかった。

 俯いているため確認はできないが、きっと八雲は今、怪訝そうな顔をして晴香を見下ろしているだろう。

 「…お…」
 「晴香ー?」

 八雲がなにか言いかけた時、それを遮るように晴香を呼ぶ声があがった。声のした方を見ると、少し離れた所から、美樹がこちらに向かって手を振っている。と、やっと八雲に気がついたのか、目を一瞬見開き、ニヤニヤと質の悪い笑みを浮かべ始めた。

 マズい。晴香は瞬時にそう思った。今の彼女なら、晴香と八雲を二人きりにしかねない。それはどうしても避けたい状況だった。

 「…私、行かなきゃ」
 「え…」

 早く。美樹が余計なこと言い出す前に。

 「ごめん、八雲くん。私、もう…」
 「待てよ!」

 突然、八雲の大きな声が響きわたり、踵を返した晴香の腕が八雲の手により強く掴まれた。その声は辺りに反響し、二人の周りの学生がチラチラとこちらの様子を伺う。美樹も、驚いたように動きを止めた。

 晴香が八雲を見上げると、彼は睨みつけるように、けれどどこか悲しげに、晴香をじっと見つめていた。その表情に、晴香は思わず息をのむ。

 「…なにを怒っている?」
 「…え?」
 「君は一体なにを怒っているのかと聞いているんだ!」

 珍しく声を荒げる八雲に、晴香は困惑しきっていた。周りも目に入っていないようで、声のボリュームは下がらない。

 「べ、べつに私、怒ってなんか…」
 「じゃあなぜ僕を避ける?なんで目も合わせようとしないんだ?」
 「そ、それは…」

 晴香の心が悲鳴をあげた。八雲の瞳が、八雲の言葉が、八雲の手が、晴香の決心を揺るがす。

 もう、いいじゃない……

 理性の糸が、キリキリと音をたてて切れていくのを感じた。今すぐ彼の胸に泣きつきたい。強くすがりつきたい。

 「…や」

 プルルルルルッ プルルルルルッ

 携帯の音が、響き渡った。着信音はすぐに止まり、かわりに受け答える声が聞こえる。晴香の携帯ではない。このカフェテリアにいる学生のうちの誰かの物だ。それでも、晴香を凍りつかせるには十分だった。

 瞬間、おぞましい記憶がフラッシュバックする。冷たい汗が背中をつたい、血の気が体中から引いていった。

 「…おい?」

 突然顔を真っ青にして固まった晴香を、八雲は不審気にうかがった。掴んでいた彼女の腕を、軽く揺する。その行動に、晴香はハッと我に返った。

 「おい、どうした?大丈…」
 「は、離して…!!」

 晴香は掴まれていた腕を思いっきり振り払った。八雲の手は、突然の衝撃にあっさりと晴香の腕から外される。晴香が青白い顔のまま八雲を見上げると、彼の目は驚きで見開かれ、呆然と晴香を見つめていた。

 そこでようやく、晴香は自分が犯したとんでもない失態に気がついた。

 「あ、ちが…」

 言い訳をしようにも、混乱した頭では上手く言葉を紡ぐこともできない。晴香がしどろもどろになっているうちに、段々と八雲の顔から表情が消えていった。

 「…君の気持ちはよく分かった」
 「えっ!?」

 八雲は吐き捨てるように一言そう言い残すと、晴香に背を向け歩き出した。反射的にその背中を追いかけようとして、晴香は踏みとどまった。

 晴香ハ、俺ノモノ

 聞こえるはずのない声が、晴香の耳もとで囁いた気がした。

 そうだ。私は八雲を守るんだ。

 機械的に、心の中で何度も何度もそう、呟いた。


 「ちょっと、晴香!」

 二人のやり取りを呆然と見ていた美樹が、八雲が去った事で我に返り、晴香に近づいてきた。晴香を呼ぶ声には、非難の色が混ざっている。

 「あんた達、一体なに…」
 「大丈夫…、ただの、喧嘩だから…」

 そうだ。こんなの、いつもの喧嘩のひとつに過ぎない。また、

 「また、今度会ったら、すぐに仲直りできるから……」

 だから、きっと…

 「大丈夫、だよね…?」
 「晴香……」

 自分に言い聞かせるように。立ち去ってしまった彼に問いかけるように。晴香は力なくそう呟く。

 はらはらと涙を零す晴香の手を、美樹が無言で握りしめた。















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