text (八雲)

□Irreplaceable you (9)
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 「大丈夫かい?」

 カチャリと音を立てて、ティーカップが目の前に置かれた。ダークブラウンの液体がゆらゆら揺れ、白い湯気がふわりとあがる。

 「この時期にホットココアは、ちょっと早すぎだったかな?」

 ファミレスのフリードリンクサービスのココアを持ってきた男は、気付いたように頭を掻いた。

 「いいえ!大丈夫です。あ、あの、本当にすみません。ありがとうございます」

 苦笑いを浮かべる男に晴香は慌てて首を振り、深く頭を下げた。それに男は、笑顔で首を振る。男の柔和な笑顔に、晴香は心の中の強張りが少し和らいだ気がした。






 先程、カフェテリアで八雲と別れてから、そのまま講義を受ける気にもなれず、晴香は午後の講義を休む事にした。

 心配そうに何があったのか詰問してくる美樹を、なんとか説き伏せて大学を出た途中、晴香はこの間道端でハンカチを拾ってくれた男に偶然出くわした。

 男は晴香を見るなり、驚いたような顔をした。真っ赤に腫れた目をしていたから、当たり前と言えば当たり前だった。

 心配そうに何があったのか尋ねる男に、晴香は大丈夫と首を振ったが、男が見逃してくれる事はなかった。

 口を割ろうとしない晴香に男は困ったように頭を掻き、次いで何かをひらめいたように表情をパッと明るくした。

 「それじゃあ、あそこのファミレスに行かない?俺、奢るからさ」

 あそこ、と男が指を指した方を見ると、晴香も何度か行った事のある有名なファミリーレストランがあった。

 晴香は断ろうかとも思ったが、彼の申し出をむげに断り続けるのも気が引け、そして何より、晴香はもう誰かに頼りたい気分だった。それが例え初対面同然の男だったとしても。

 チラリと男の顔を見る。

 整った顔立ちに、柔和な笑顔。栗色の明るい髪。

 どこをどう見ても、男が悪い人間には見えなかった。それに実際、彼は本気で晴香を心配しているように見えた。

 ちょっとくらい、大丈夫かな…?

 晴香が男の半ば強引な誘いを受け入れると、男はパッと笑顔になり、晴香をファミレスに促す。晴香もそれに素直に応え、二人はファミレスのドアをくぐった。










 「…それで、えっと…」

 男が晴香に話しかけようとして、口ごもった。その様子にピンときた晴香は、慌てて頭を下げた。

 「あ、小沢です。小沢晴香…」
 「晴香ちゃん…。あ、俺は近野」
 
 なんともぎこちない自己紹介をお互い終え、二人して苦笑いを交わす。よく考えてみると、お互い名前もよく知らない相手とファミレスでお茶をしている今の状況は、明らかに異様だと、晴香は改めて思った。

 「えーと、それで、晴香ちゃん。やっぱり君、なにかあったんじゃないか?この前といい今日といい、明らかに様子が変だ…」

 遠慮がちではあるが核心を突いた近野の質問に、晴香は居心地悪気に身じろいだ。小さく唇を噛み、俯く。

 晴香のその様子に、近野は辛そうに眉根を寄せた。

 「お節介かもしれない。でも、君の様子を見てるとどうしても放っておけないんだ。君は、今の君はまるで…」
 「近野さん…?」

 急に熱のこもった声で早口に話し出した近野に、晴香は戸惑いがちに顔をあげた。近野はハッとしたように目を開くと、頭を掻きながらバツが悪そうに、ごめん、と一言呟いた。

 「ごめん、ちょっと昔の事を思い出しちゃって…」
 「…?」

 近野の様子に晴香は首を傾げる。そんな晴香を見て、近野は一瞬目を彷徨わせた。

 「近野さん?」
 「……晴香ちゃん。単刀直入に聞いていいかな?」

 少し怪訝そうに晴香が呼びかけると、近野は一回大きな深呼吸をして、真剣な表情で晴香にそう尋ねた。

 急に変わった近野の態度に、晴香も思わず姿勢を正す。晴香の答えも聞かぬまま、近野は再び口を開いた。

 「…晴香ちゃん。君、もしかしてストーカー被害に合ってるんじゃない?」
 「!」

 晴香は驚きで目を見開いた。その表情を見て、やっぱり、と近野が小さく呟く。

 「な、なんであなたが…」
 「あ、誤解しないで!別に俺、怪しいもんじゃないから!!」

 サーッと血の気が引いて青ざめる晴香を見て、近野は慌てたようにブンブン手を振った。脅えたように震える晴香に、ごめん、と心底申し訳なさそうに謝る。

 「やっぱり単刀直入過ぎたな…。でも、分かって欲しい。俺は絶対、君の味方だから」

 そう言って近野は晴香を見つめた。しかしそうは言われても、はいそうですかとすぐに納得できるものでもない。近野に対する晴香の警戒心は、いまだ消えないままだった。

 このまま店を飛び出して逃げ出しそうな勢いの晴香に、近野は、なぜか悲しそうに微笑みかけ、そのままカクンと俯いた。

 「……似てたんだ。君が…、俺の、姉さんに……」
 「え…?」

 消え入りそうな声で、近野はポツリ、ポツリと呟く。そうして顔を上げると、虚空を見つめ、悲しそうに表情を歪めた。

 「…俺の姉さんも、ストーカーに合っていたんだ……」






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 晴香は半ば放心状態で自宅のドアを開けた。

 この間から窓もカーテンも閉めっぱなしの室内は熱気がたちこめ、入ってすぐに身体中に汗がじんわりと浮かんだ。しかし晴香に、そんな事気にする余裕はなかった。

 晴香の頭を占めるのは、先程の近野との会話。


 俺の姉さんも、ストーカーに合っていたんだ――――――


 あのあと、近野の口から彼の姉の事が語られる事はなかった。彼女がその後、どうなったのかも。

 晴香は、右手に握っている小さな紙切れを見つめた。そこには、近野の連絡先が書かれている。


 ただ力になりたいんだ。俺は君の味方だから。なにかあったら連絡して。


 そう言って近野は、別れ際、晴香にこれを渡した。優しく微笑む近野に、晴香は"はい"も"いいえ"も言えなかった。

 なにを信じたらいいのか分からない。

 近野は本当に信用していい相手なのか。それとも、なにか裏があって晴香に近づいたのか。


 唯一、手放しで信用できる相手は、もう頼れない。私が、私の手で、その人を傷つけてしまった。

 あの時の、驚きの中に悲しみを滲ませた彼の表情が、晴香の頭を掠めた。


 八雲くん……――――


 その時、突然外から誰かが勢いよく階段を駆け上がってくる音が聞こえた。そのままその足音は、こちらに向かって大きくなってゆく。玄関先で立ち尽くしていた晴香は、ビクリと肩を震わせた。

 バタバタと激しい足音は、ちょうど晴香の部屋の前で止まり、次いで強くドアを叩く音が響いた。

 「おい!いないのか!?いるなら返事しろ!!」

 ノックにしては少々荒々しい音に混ざって、聞き慣れた声がかすかに聞こえた。聞き間違えるはずもない。晴香は驚き、反射的に声をあげた。

 「八雲くん!?」

 晴香の声が聞こえたのか、激しいノックが止んだ。

 「ドアを、開けろ…!」

 息も絶え絶えにそう声を張り上げる八雲にただならぬものを感じた晴香は、慌ててドアを開けた。

 「…八雲くん」

 ドアを開けると、そこにはやはり八雲が立っていた。途端、込み上げてくる涙と嬉しさを、晴香はグッと堪えた。そのまま八雲をよく見ると、彼は珍しいぐらいに息が上がり、白い素肌は汗でキラキラ光っていた。

 「や、八雲くん…。一体どうし…」
 「なぜ黙っていた?」

 晴香の言葉を遮るように、八雲は低く言った。その声からは激しい怒りが感じられ、表情も険しく歪んでいる。晴香は今まで見たこともない彼の様子に、思わず身をすくめた。

 「どうして黙ってたんだ?」
 「な、に言って…」
 「とぼけるな!君はストーカーの被害に合っているんだろ!?なぜそれを黙っていたんだ!?」

 八雲が怒鳴った。あの、いつも冷静沈着な八雲が。

 晴香は驚きと恐怖に身を震わせ、同時にハッとなった。

 八雲に、ストーカーの事を知られてしまった。

 そしてまた、新たに気がつく。ストーカーは、いつ、どこで自分を見ているか分からない。

 この状況をもしストーカーが見ていたら、マズい事くらい晴香にも分かった。八雲に、危険が及ぶかもしれない。

 晴香は唇をわななかせた。

 「…や……には……な…」

 なおも晴香を睨みつける八雲に、晴香は俯き、震える小さな声で告げる。聞こえなかったのか、八雲は晴香を覗き込むように顔を近づけた。

 「八雲くんには、関係ないでしょ…」

 今度は、もっと大きく、ハッキリした声で言った。声が震えてしまったことは、もう晴香にもどうしようもなかった。

 ただ、とにかく早くここを立ち去ってほしかった。自分の側から、離れてほしかった。

 相手は何をしてくるか分からない。危険な相手なのだ。八雲に、危害が及ぶことだけは絶対に避けたかった。

 だから…―――

 「わ、私は大丈夫だから…。だから、早く帰っ…」
 「僕は…」

 晴香が涙を必死に我慢して発した声を、またも八雲が遮った。しかしその声は先程とは違い、覇気がなく、晴香のように、いやそれ以上に震えていた。

 晴香は恐る恐る八雲を見上げ、そして驚き目を見開いた。心臓が今までにないほど悲鳴をあげ、ギリギリと痛む。

 八雲は、今まで見たことのない程傷つき、今にも泣き出しそうな顔で晴香を見つめていた。

 「や、八雲くん…」
 「僕は……、君が、君は、僕の痛みも、つらい過去も、全て受け止めそばにいてくれた。それにはとても感謝してるし、僕も、出来る事なら、君のそばで、君の痛みも、つらい過去も、何もかも全て受け止めて、君を守りたいと、君が僕を支えてくれるように、僕も君の支えになりたいと、そう思っていた…。君も、きっとそれを許してくれると思っていた……」

 八雲はガクンと俯き、力なくうなだれた。

 「…でもそれは、僕の独りよがりでしかなかったという事か……」

 そう呟いた八雲の声は、ひどく掠れていた。


 もう限界だった。我慢なんて、できるわけもなかった。

 晴香の瞳からは止めどなく涙が溢れて、視界が歪み、目の前の八雲ですらうまく見えない。

 本当は、来てくれて嬉しかった。汗だくになるまで必死に走って、心配してくれた事に感激した。帰ってなんて、ほしくなかった。

 ずっと、頼りたかった。


 晴香は、溢れる涙もそのままに、八雲に手を伸ばした。

 「八雲、く…」


 その時、また誰かが階段を駆け上がる大きな音が辺りに響いた。晴香と八雲はビクリと肩を震わせ、同時に階段を見やった。

 「や、八雲ーー!!」

 聞き覚えのある叫び声。晴香も八雲も、声の主を分からないわけがなかった。

 「後藤さん…?」

 晴香が呟くのとほぼ同時に、後藤が階段を登りきり、廊下に躍り出てきた。そのままこちらに向かって走ってきたかと思うと、晴香の顔を見てギョッとしたように目を見開き、先程叫んだ時と変わらぬ音量で八雲にまくし立てた。

 「ちょっと待て八雲!晴香ちゃんを責めるのは筋違いだ!!落ち着いてこの写真をよく見ろ!!」

 いまだに無表情な八雲と、いまいち状況が把握できていない晴香の前に、後藤から一枚の写真が突き出された。










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