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□WSC SP008
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 「今日からきみに、SP008の称号を与え、WSCのスパイとして働いてもらう」



 男の声が、静かな部屋にひびく。音は波紋のように広がり、わたしの耳までとどいた。

 けれど、同じ日本語のはずなのに、まるで他の国の言葉を聞かされるみたいに、わたしの脳はその意味をくみとらない。

 相手の言っていることが根本からまったく理解できないなんてことは、生まれて初めての体験だった。

 「いや、驚くのも無理はない。突然のことだからね」

 固まるわたしを見ると、男は肩をすくめて苦笑いをした。

 「あやかさん、あなた、先日病院の窓から変な人影を見ただろう?」
 「…ぇ?」

 なんで知ってるの?

 わたしは驚いて目を見開いた。同時にあのときの恐怖も湧きおこって、ぶるりと身震いする。

 「な、なんで…」 おそるおそる問いかけた。

 「あれ、実は、そこにいる聖司なんだよ」

 マジックの種あかしをするみたいに男は言う。

 ええ!?

 予想外の真相に、振りかえってうしろの神谷聖司を見た。そのままじっと凝視する。

 その反応が気にくわなかったのか、神谷聖司はわたしを睨みかえす。その視線の鋭さに、くやしいけど少したじろいだ。

 「わたしたちスパイの掟に、スパイの仕事のことは絶対だれにも知られてはならない、というものがあってね」

 男は、芝居がかった口調でわたしに説明する。流暢に語られる話は、知らない国の夢物語のよう。つまり、私にとってはそれくらい、現実から隔離された話ということだ。

 「だが、聖司はあなたに、任務遂行中の姿をみられてしまった。これは、大きな問題なんだよ」 そう言って、男はわざとらしく首をふる。

 ということはつまり、わたしは彼の尻拭いをさせられるってこと?

 今までわたしの中で渦巻いていた行き場のない不安が、怒りに姿を変えて、とうとう溢れかえった。

 わたしは、悲劇のヒロインさながらの、悲感に満ちた仕草で男につめよった。

 「ちょっと待ってください!わたしが神谷くんの姿を見てしまったことは認めます!でも、だからって、なんでわたしがスパイにならなきゃならないんですか!?」

 男の前まで行って訴えかける。だって、こんなの不可抗力だ。自分の失敗は、自分でなんとかしてほしい。他人を巻き込むなんて、はた迷惑もいいとこだ。


 「…おまえ、話聞いてなかったのかよ」

 突然、低く冷ややかな声が響いた。今までずっと黙っていた神谷聖司のものだ。それは呆れたような口調だったけれど、その中に小さく怒りも感じられた。

 「言っただろ?スパイの仕事は、だれにもバレちゃいけないって。部外者がおれたちのことを知ってたらまずいんだよ」

 ゆったりとした声は、暖かみがなく、あくまで冷静だった。神谷聖司はわたしを冷ややかに見つめたまま、ツカツカと大股で距離をつめてくる。

 わたしは、彼からにじみでる威圧感に、思わず後ずさった。

 男の座っている机が当たり、後ろへさがれなくなると、一気に距離を縮められた。顔がほんの数センチのところまで近づく。至近距離でわたしを見つめるきれいな顔に、ドキリと心臓がはねた。

 結局わたしは、足掻くこともできずに、のけぞりながら彼を見上げた。

 「本当はおまえを殺して証拠隠滅、って手もあったんだけどな。スパイになるのがイヤなら、今からそっちに変更してもいいんだぞ?」

 言うと、神谷聖司はニヤリと笑った。教室で見せた笑顔とは大違い。悪魔のような笑みに、全身が震え上がった。

 マリ、やっぱりわたし、命が危なかったみたい。

 「聖司、あんまり怖がらせるんじゃない」

 男がわたしの陰から顔をだし、神谷聖司を諫めた。

 神谷聖司はわたしを一睨みすると、顔を離して遠ざかった。途端に呪いが解けたように身体が動き、わたしはすぐさま姿勢を正した。神谷聖司が離れていくのを横目で見送る。

 じゅうぶん相手が離れたことを確認し、内心ホッとしながら、振りかえって小さく頭を下げた。

 「あ、あの、ありがとうございます…」

 「いや、こちらこそすまないね。アイツは少々ひねくれてるんだ」 男は困ったように言う。

 後ろから、外で待ってる、と言う不機嫌そうな声が聞こえた。

 「でも、アイツの言うことは間違いでもないんだよ。一般人にスパイの活動のことを知られる訳にはいかない。証拠隠滅のために殺すまではいかないにしろ、なんらかの対処はとらないとね」

 男はとても自然に、わたしの恐怖を取り除きにかかった。

 けれど、頑固なわたしの心は、なかなか恐怖心を手放さない。

 「大丈夫!きみならできるさ」

 いつまでたっても沈み込んでいるわたしを、男は必死になって鼓舞する。

 わたしはそれに、苦笑いさえ返すことができなかった。そのかわりに、おなかのあたりから込み上げる不安の塊を口からこぼした。

 「で、でも…わたし、スパイなんてやったことないし、うまくできるかどうか…」

 スポーツなんてやったことないし、みたいなニュアンスで言ってしまったけど、そこに込められる意味はこっちの方が深刻だ。

 わたしの頭には、激しいアクションをくり返すオジサンの姿がぐるぐる回っていた。

 「そんなに難しいことじゃないさ。聖司の仕事を見てれば自然に覚えるよ 」 男は、とても安心できる笑顔で言う。

 わたしは耳を疑った。どんなに安心できる笑顔でも、言葉の内容がそれを伴ってない。

 「……え?わ、わたし、神谷くんといっしょに仕事するんですか?」 わたしは困惑しながら言った。

 わたしの質問に、男は一瞬キョトンとしたあと、ああ!、と納得したように何度も笑顔で頷いた。

 「ああ、そうなんだ。きみには今日から聖司のパートナーになってもらうからね」

 男は、そういえば言ってなかったなぁ、と笑顔で頭を掻く。

 「ええええええええええええ!?」

 部屋中にわたしの絶叫が響いた。きっと外にいる神谷聖司にも聞こえているだろうけど、そんなことに配慮する余裕もない。

 「うっ、うそ!わたし、神谷くんの、パートナー!?」

 「ああ、そうだよ」 男はニッコリとほほえむ。

 う、うそでしょ…

 ただでさえボロボロな平常心に、さらに傷が加わった。わたしは半泣きになりながら、ニコニコと笑顔を絶やさない男に必死で訴えかける。

 「む、無理ですわたし!神谷くんといっしょに仕事なんて…!」

 「大丈夫、大丈夫。聖司もああ見えて、けっこう優しいやつなんだよ」 そう言って、にっこり微笑む。

 男の笑顔は穏やかだったけど、その笑みには有無を言わせない強さがあった。ただし、根拠はひとかけらもない。

 わたしは結局、それ以上の抗議もできずにがっくりと肩をおとした。さっきつねられた頬が、また痛みだした気がする。

 「まぁ、すぐに慣れるさ」 男はそう言い、椅子から立ち上がった。

 「今日の用これでおわりだ。入り用なものは追々用意しよう。今日はもう、帰って大丈夫だよ」

 男はわたしを出口の扉に連れていく。わたしも、なんだか異様に疲れてしまい、反抗することもせず素直に従った。

 「…すまないね。こんなことに巻き込んでしまって……」

 突然変わった声のトーンに、驚いて顔をあげた。見ると、男が本当に申し訳なさそうにわたしを見ていた。

 「…いえ……」 わたしは首を振った。

 男の顔はなんだかとても悲しそうで、こっちが罪悪感を感じてしまう。男は、わたしの肩をポンとたたいた。

 「おっと、そうだ。大切なことを忘れてたよ。…はい、これ」

 男は胸ポケットからなにかを取り出し、わたしの手にのせた。

 渡されたものは、008と彫られた小さなピンバッチ。

 「きみがこのWSCのスパイだという証だ。きっとこれが、きみを守ってくれるだろう」 男はにっこりと微笑んだ。

 こんな小さなピンバッチに、わたしを守る力があるとは思えない。けど、男の言葉はなぜか信頼できた。

 わたしは、そのピンバッチをギュッと握った。

 「ボス…、わたし、やります…。がんばってみます、スパイ…」


 逃げられないならやるしかない。

 気が変わってしまう前に、言葉にする必要があった。じゃないと、また弱気になってしまう。

 わたしが決意を口にすると、ボスは一瞬目を見開き、嬉しそうに笑った。

 「それじゃあ、失礼します」
 「ああ、気をつけて」

 わたしが頭を下げてあいさつすると、ボスも手を振り応えてくれる。

 わたしはぎこちなく笑顔をかえし、部屋にも負けず劣らず立派なドア――細かい彫刻がいたるところに施されている――に手をかけた。

 「…あやかさん」 男はわたしを呼び止めた。

 開きかけたドアをそのままに振り返る。ボスは相変わらず笑顔でわたしを見ていた。

 「聖司を、たのむよ」
 「…?はい…」

 なんでわたしが彼をたのまれるんだろう…

 疑問に思ったけれど、深く追求することもしなかった。そのままわたしは、部屋をあとにした。






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