緋色の花弁を散らしませう。

□序章
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私の一番古い記憶。
それは、十二の夏の終わり、まだ日も昇らぬ明け方の記憶。
生まれて十二年目以前の記憶、幼い日の思い出とも呼べるそれは、ふと思い浮かべようと思ったときには、すでになかった。
ただ、その夏の終わりの思い出は、私の脳裏に、瞳に焼け付いて剥がれない。

ある日の明け方の、あの緋色の記憶。

「母上っ!」

記憶を掘り起こして脳内で再生すると、いつも私の目を見つめる母親の微笑みが瞼の裏に映る。
母上、母上としきりに叫ぶのは、幼き日の弟だった。
母の私と同じ緋の瞳はぐったりと濁っていて。
その直前に私の頬を撫ぜたであろう母の手が、力を失って畳へと落ちる。
頬に感じる微かな温もりが、母がたった今、絶命したことを物語る。
母の手が触れていた頬をそっと自分の手でなぞれば、にちゃりと粘着質な感触が指先を襲った。
手のひらが赤黒く染め上げられているのを、呆然として確認する。

心臓が跳ねるのが、血が煮えるのがわかる。
記憶を頼りに鼓動の音を数えられそうなほどに、鮮明な記憶。

俯いた視線の端に、槍の穂が見えた。
口金まで、べったりと赤く染まっている。
確かその槍は、父の愛刀のはずだった。
そして、父が常に傍に置き、就寝の際も枕元を守っているもののはずだった。
夏の日の出来事なのに、私の身体には、そのとき感じた悪寒の記憶が残っている。

顔を上げれば、血をかぶった男が立っていた。
男の眼は血走って釣り上がり、耳まで赤黒く染まった顔は、まさに鬼だった。
しかしその瞳は、その雄々しく凛々しい眉は、その硬く引き結ばれた口元は。

「ーー父様?」

紛れもなく、私の父親ではなかったか。

紅い、鬼の瞳。
それが私たち姉弟を捉えたとき、私の右腕にすがっていた弟の喉から、ひゅうっと空気が抜ける音が聞こえた。
かたかたと震える弟の身体とは正反対に、私の心は凪いでいた。
その瞬間、私の身体から聞こえる音は何一つなかった。
ただ、異様なほど激しくのたうちまわる血流だけを感じていた。




そこから、私の記憶はぷつりと途切れている。
次に意識が浮上したときには、天井の木目が視界に入った。

否、天井、だけではない。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃな、白いふわふわーー

「緋鶴ッ!!!!」
「ーー内蔵助?」

後に知ったことだが、私は屋敷の庭で倒れていたところを、孫介さんに拾われたらしかった。
内蔵助の泣き顔なんか珍しくもなんともないけれど、
これほどぐっしゃぐしゃに泣きじゃくる内蔵助を見たのは、後にも先にもこれきりだった。




私の両親は、あの日二人とも死んだ。
父の遺体は、首を飛ばされたものだった。
家族の謎に包まれた死の詳細を、私は追い続けている。



そして、この事件には、もう一つ、大きな謎が残る。
あの日、孫介さんに保護されたのは、私一人だった。


弟の行方は、五年経った今でもわかっていない。






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