緋色の花弁を散らしませう。

□四話
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緋鶴はかさねの手首を掴んだまま、ずんずんと城の廊下を歩き続けていた。
その肩には天狼が悠々と鎮座し、鋭い眼差しをかさねに向け続けている。

「待っ、緋鶴さんっ! 待ってください!」

かさねの悲鳴に似た叫びに、ようやく緋鶴が歩みを止めた。
静かな表情のまま、黙って振り返る。
真っ直ぐな緋色の瞳が、鋭くかさねを射抜く。
その眼差しが先ほど同じように己を射抜いた信長の瞳と重なり、知らず少女は怯んだ。

「何?」
「い、今……どこに、向かってるんですか……?」
「馬のところ」
「馬?」
「萱津の川は、歩いて行くには少し遠いかんな」

淡々とそう答えた緋鶴にまた怯む。
牢で花咲く笑顔と共に話しかけて来た少女の面影を探しても、鋭い双眸に暖色は見当たらない。

そのときかさねが抱いた感情は、紛れもない恐怖だった。
緋鶴に対してではない。
この時代、戦国乱世の、冷たい時代に対する恐怖だ。

さして自分と年も変わらないような少女が、
自分の生きていた時代では、屈託無く友達と笑い合っているはずの少女が、
こんなに冷たい目を人に向けることができてしまうのか。
そんな時代なのか。
私は、そんな時代に飛ばされてしまったのか。

先程までは、かさねの胸を覆い尽くしていたのは、知らない地、知らない時代に突然放り出された不安だけだった。
しかし今、その現実を目の前に突きつけられた時。
かさねの胸を侵食していくのは、死と共に在った時代への、確かな恐怖だった。

「……かさね、だっけ」

あれこれ考えているうちに名を呼ばれ、不自然に途切れながらも返事を返す。
かさねとほぼ同じ高さに位置する緋色の瞳。
それが僅かに細められたことに気付き、かさねは内心首を傾げた。

「殿を……信長様を」
「は、い」
「理不尽なだけの方だと、思ったか?」
「え……?」

少し揺らいだ瞳は、先程よりも少し温度を帯びている。
僅かな感情の欠片を、なんとか見出すことができそうだった。
しかし欠片のありかを悟らせぬまま、緋鶴は唇を曲線状に歪めて見せた。
描き出された、あまりにも美しすぎる、その桜色の弧。
それが笑みだと気づいたのは、一拍遅れてからのことだった。
畏れさえ感じられそうなほど、それは美しい微笑だった。
しかしかさねには、それが意図的に作り出された紛い物の笑みであることがすぐにわかった。
それはただの直感だったが、かさねは何故か、確信を持っていた。

「なんでか……あんたなら、わかってくれる気がすんだよな」

同時に、あまりにも哀しいと思った。
かさねは、緋鶴の瞳から涙が零れ落ちるような、そんな幻覚を見た気がした。

「ど、どういう……」
「緋鶴!! かさね殿!!」

背後から聞こえた声にかさねは思わず肩を震わせた。
緋鶴はかさねから視線を逸らし、その背後を見やる。
結局そのまま、緋鶴の言葉の続きを聞くことは叶わなかった。
かさねが振り返ると、焦ったような表情の三馬鹿が、こちらを見つめていた。
先ほど自分を暖かい態度で受け入れた彼らの、その変わらない暖かい眼差しに少し安堵する。
大丈夫だ。
この時代にだって、優しく暖かな感情がある。
それだけで、自然体でそこに立つことができると思った。

「草薙かさね」

小さな声で背後から呼ばれ、また振り返る。

「あんたは自分の正義だけ信じてればいい」
「緋鶴、さん?」
「ここは戦国乱世、尾張の地だ。迷いのある奴から倒れてくよ」

その言葉の意味を、かさねはその時、まだ深く理解する暇はなかった。
ただ、緋鶴が軽く押してくれた背が、なんだかとても頼もしいような気がした。

「五郎左、馬出せ。すぐ出るぞ」
「緋鶴あなた本当に……!」
「馬鹿、殿の下知に逆らえっかよ。首が飛ぶ」
「俺も行くぜ。これ以上こいつに出世街道邪魔されてたまるかってんだ」

緋鶴と内蔵助の意見が珍しく一致する。
馬小屋に向かってすたすたと歩き出す二人の後ろ姿を暫し見つめてから、五郎左がかさねに向き直った。

「かさね殿……」
「あっ!? 私のことは気にしないでください! 遠慮なく川に捨てちゃって大丈夫ですから!」

五郎左の形の良い眉がひっそりと寄った。
その少し悲しげな表情に、かさねはにっこりと口角を上げてこたえてみせた。





例えばそうして、少しの勇気が出たとして。
かさねの、信長に対する不信感や考え方の違いが払拭されたわけではない。

五郎左の馬におっかなびっくり乗せてもらい、慣れないためにゆっくりゆったりと萱津の川へと向かっていた。
その最中も、かさねの信長への愚痴はぶつぶつと続いていた。
しかしその愚痴が自分のことだけではなく、三馬鹿の理不尽な扱いへの憤りも含まれるところがまたかさねである。

「ごめんなさい五郎左さん。せっかく親切にしてもらったのに、かえって悪いことしたみたい」
「いえ、私の方こそお力になれず……」

天狼が一行の頭上を旋回しながら、見張りに目を光らせている。
信長からそんじょそこらの家臣よりもよっぽど信頼を寄せられている、あの天狼である。
これほど有能な見張り番はそういない。
見張りといえばもう一人、やはり信長より全幅の信頼を寄せられている数少ない直参(仮)がいる。
五郎左もこの直参(仮)こと緋鶴とは、仲間として、また幼き頃からの友として、背を預け合うまでの信頼関係を築いているのだ。
それ故に、敵……と言えば語弊があるが、行動が食い違えばこれほど厄介な輩はいないと知っている。
その緋鶴は、現在一行の最後尾で、欠伸混じりに鮮やかな赤毛の馬をかっぽかっぽと歩ませている。
腑抜けたように見えて実は鋭いその眼差しを、五郎左は頼もしくも今は厄介だと思わざるをえなかった。
勝手な行動は絶対にできない、この鉄壁の見張り。

「なんとかして逃がして差し上げたいのですが……」
「いえそれは」

重く溜息を吐いて謝罪する五郎左に、かさねは慌てたように言った。

「これ以上迷惑かけちゃったら、あの人たちがどうなるか……」

かさねと五郎左の視線の先では、内蔵助と犬千代が落胆に肩を落としていた。
犬千代は敬愛する己が主に怒られた、と。
内蔵助は己の失態を悔い出世街道が閉ざされたのでは、と。
それぞれの落胆の理由は違えども、やはり魂が抜けたようなその表情は痛々しい。
それに気を使ってか、かさねは遠慮がちに話しかけてみたりもするが、やはり内蔵助に疫病神と罵られる。
返す言葉が見つからず、罪悪感にかさねもまた肩を落とした。

「みんな殿様のこと好きなんですね」
「元はと言えば、私たちもかさね殿と同じようなものですから」

その言葉に、かさねがきょとんと顔を上げる。
五郎左はそのまま言葉を継いだ。

「我ら殿の直参はほぼ武家の次男や三男ばかり。
本来なら跡目も継げず家から用なしとされる者たちを、殿が自ら拾って使ってくださったのです」

だからこの乱世にあって、直参の殿への恩義は厚いのだと、五郎左は説明した。
かさねは五郎左の言葉に、下克上の世の片隅を見たような気がした。

「あの、じゃあ緋鶴さんって……」

かさねがそう問うたのは、女人である緋鶴が、何故屈強な家臣達に混じって信長に仕えているのか不思議だったからである。
そこに男尊女卑などという思考はなかったが、戦国の世で女人が活躍できるものなのか、と思った。

「緋鶴は少し、複雑な事情がありまして……」
「複雑……?」

かさねは頭の上に疑問符を浮かべた。

「ま、女人にしかできない仕事もあるってことよ」

背後から響く声に、一瞬肩を震わせる。
振り返れば、気だるそうな眼差しのまま、緋鶴がにへら、と笑っていた。

「肩書きは一応、女中筆頭と直属薬師なんだよ」
「筆頭!?」

まさかの筆頭などという地位の高そうな単語が出てきたので、かさねはあんぐりと口を開けた。

「緋鶴さんて直参兵じゃないんですか!?」
「だから最初に言ったろだろ。私は直属軍に入ってる訳じゃないんだって」
「じゃあなんで皆さんと一緒に?」
「万が一の時の救護という名目でのただの使いぱしりだよ」
「ええええええ!?」

春の薄青の空に、かさねの叫びが響く。
緋鶴の薙刀捌きを間近で見ていたかさねは、てっきり直属軍でばりばりに活躍しているのだろうと思っていたのだ。
それがまさか直参兵ではない、しかもただの使いぱしりなどと言われては驚きもひとしおである。
ばさりと、遠くの山でカラスが飛びたつ。
前方を行く内蔵助が振り返って、うるせぇと叫び唸った。
彼には今は何を言ってもいちいち頭にくるに違いない。

「かさね、かさね」

呆然としていたかさねは、その声に顔を上げた。




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