MAIN
□銀猫のアレグロ
1ページ/5ページ
―キティはなにくわぬ顔をしてアリスの膝におさまり、毛糸が巻かれてゆくのを見守っているふりをしながら、ときどき手をのばしてそうっと糸玉にさわったりして、お手伝いでもできたらいいなと思ってるみたいだった。【鏡の国のアリス】―
[December 22]
瞼を下ろす。
座り慣れた応接室の一人掛けソファの背凭れへ深く体重を預けて、ゆっくりと息を吸い込み、そして、
肺を膨らませた冬特有の乾いたその空気を、今度は静かに吐き出していく、でも、
ああ、駄目だ、こんなことでは、とてもでないが、
喉元まで迫り上がってきている虫酸を、治めることなんて出来ない。
ぎゅ、と眉根を寄せて、袖口に仕込んだトンファーを手慰みに指先でなぞりながら、
口内で舌打ちを噛み殺し、自分でもちょっと制御が出来ないくらい、どろどろとした苛つきを、一応、
呑み込もうと努めてみる、が、
閉ざした瞼を真っ直ぐに射し貫き、漆黒であるはずの視界を、瞼の裏の血管色に染め上げる陽光が、やけにきらきらと澄んでいて、
それは、大気圏を押し上げる勢いで音も無く膨張を続けている人々の高揚だとか、期待だとかを、まさに象徴しているかのようだったから、
舌の奥が、じんわり、と苦くなるのを止められない。
一体、何だって年末年始はこんなに煩わしいのだろう。
街は喧しく(かまびすしく)クリスマスキャロルや正月にちなんだ童謡を延々と流し続けているし、其処此処で人はいっそ感心したくなるくらい群れている、更に、
大掃除だか歳末セールだか知らないが、朝からやたらと騒がしいし、
昼日中は冬休みという自由にはしゃぐ学生らが、そして夜は、見るも無惨な泥酔者達が通りを我が物顔で埋め尽くす、でも、
まぁ、それだけならば、別に構わない、と言っても良いだろうと思う、何故って、
強くも無い奴らを咬み殺すのは、確かに、酷く億劫ではあるけれど、良くも悪くも暇潰しにはなる、だから、
そう、問題は、そこじゃないんだ。
問題は、酷く浮かれると、人は、学習能力が欠落する、という点。
こぼし慣れない、しかし今日は既にもう何度吐き出したか知れない溜め息をまた一つこぼし、ソファの肘掛けに頬杖をついて、脚を組む。
瞼を開けて、斜陽の紅に染まった窓硝子の向こうへと視線を投げれば、
校門の側でしゃがみこみ、だらしなく気崩した制服を揺らして莫迦みたいに笑う数人の男達が視界に映り、
思わず、ぎりり、と奥歯を鳴らした、ああ、もう、
本当に、救えないくらい、忌々しい。
普段は黒い学ランを見ただけで貌を青ざめさせるような奴らも、年末年始という、もしくは、冬休みという、独特の非日常的な空気にあてられ、気ばかりが大きくなり、
卑小な癖に生意気にも秩序を乱し、しかも、咬み殺されても反省せずに、眼を離すとまた同じ愚行を繰り返す。
数時間前、冷えた体育館で執り行われた終業式の場で、校則に少しでも触れていた者達は全て、風紀委員達に咬み殺させたというのに、もう、この様だ。
何が一体そこまで愉快なのか、やけに楽しそうに手を叩き、背を仰け反らせて笑う彼らをじっと見詰めつつ、自身の犬歯の尖端を、確かめるように舌でなぞる、と、
こちらの視線に気付いたのか、彼らは僅かに肩を強張らせ、そして、
次の刹那、火傷でもしたかのように飛び上がり、地に投げ出していた鞄を各々手に取って、校門の向こうへと駆けていった。
とんとん、と人差し指で革張りの一人掛けソファの肘掛けを叩き、軽く首を傾げた、ら、
さらりと流れた自身の黒い髪に頬を擽られ、
その感覚すら、妙に不快で、
眼を静かに細め、
今の奴らを追い掛けて、ずたずたに咬み殺してやりたいな、と口内で噛み締めてみる。
どうせ、ここからは死角になっている校門の少し先辺りで、奴らは、
上手く逃げ切れたな、って互いに目配せしながら、下卑た朗笑を奏でているに違いないんだ、だから、
今すぐに、この窓から飛び降りて、奴らの背を追い掛け、そのまま後ろから、
冬休みは正確には明日からだというのに浮かれて茶色く染められていたあの頭を、思い切り、
トンファーで殴りつけてやったら、どうだろう、なんて、
くだらない空想を、頭の中で捻りくり回す、と、
肉を打った時にトンファーから伝わる鈍い振動とか、鼻孔をほんのりと擽る鉄臭い血の香りとかが蘇ってきて、
仄暗い高揚が、音も無く肺を震わせた。
決めた、今の彼ら、咬み殺してきてあげよう。
肚の奥底から込み上げてくる欲動に逆らわず、自身の唇を舌でなぞり、でも、
視線を室内へと移し、
先程からやかましく騒ぎながら必死に一人の小さな子供を押さえこもうとしている風紀委員達を視界に入れ、
ふと、思い直した。
やはり、さっきの彼らよりも先に咬み殺されるべきは、
この木偶の坊達だ。