MAIN
□黒鷹のアジタート
1ページ/4ページ
―「ずいぶん面白そうじゃない」アリスは読みおわってつぶやいた。「だけどけっこうわかりにくい」(ほらね、アリスは全然お手上げだなんて、たとえひとりごとにしろ、白状したくなかったんだ)【鏡の国のアリス】―
[December 23]
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった、という文章を初めて聞いた時、
なんだ、それ、って思った、だって、
トンネル一つ抜けただけで、世界が白銀に彩られ様変わりしてました、なんてこと、あり得る訳がない、でも、
日本には真ん中に真っ直ぐ背骨みたいな山脈が走っていて、雪雲はその山の連なりを越えられないのだと十代目に教わって、なるほど、と納得した、つまり、
山脈より向こう側は雪が降っているのに、こちら側は降っていない、という現象はあり得て、となると、
俺は残念ながらその山脈の向こう側に行ったことが無いから分からないけれど、
山脈を削って作ったトンネルを抜けると、雪に閉ざされた別世界が広がっていた、なんていう酷く浪漫的なこともあり得るのだろう。
流石は十代目が生誕なさった土地、なんて神秘的なんだ、
でも、
でも、いくら日本が神秘的な土地だったとしても、
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった、ということがあり得たとしても、
流石にこれはあり得ないだろう。
校門をくぐるとイタリアであった。
これは絶対にあり得ない、もし、
その“校門”が、俺が初めてくぐる未知の学校の門だったとしたら、万に一つの可能性であり得ても構わないのかもしれないけれど、
すっかりと通い慣れた並盛中学の校門をくぐるとイタリアだった、なんて、
あり得る訳がない、というか、
あり得て良いわけがない、のに、
どういう訳か、並盛中の校門をくぐったはずの俺を、
あふれんばかりのアルファベット表記の標識とイタリア語の響きを有する喧噪に満ちた世界が、取り囲んだ。
絶対に、おかしい、昨日は別になんてことのない一日だったはずだ、
野球バカは一昨日から野球部の合宿とか何とかでどこかに行っているから、昨日は久しぶりに十代目と二人きりで、
何だか知らないけど因縁をつけてきた風紀委員の奴らを返り討ちにしてやって、寒くて仕方がない終業式を耐え忍んで、
その後戻った教室では、きっと素晴らしい成績が並んでいるに違いないのに成績表をお隠しになって謙遜なさる十代目に改めて人としての器の大きさを拝見させて頂いて、それから、
年末年始をお母様の御実家でお過ごしになる十代目とお母様とリボーンさんを、駅まで見送りに行かせて頂いた、のだが、
十代目達のお乗りになった電車も見えなくなり、さて、と家路を踏もうとした時、携帯電話を学校の机の引き出しに忘れてきたことに気付いて、
面倒臭いけれど、そのままにしておくわけにはいかないから、渋々学校へ戻り、
その門をくぐった、だけだ。
それなのに、気付いたら、俺は、
イタリアにいた。
最初は夢でも見ているんじゃないかと疑ったが、
待てど暮らせど、見慣れた天井は見えてこないし、頬をつねると残念ながら痛いし、それに、
このイタリアらしき土地で一晩を過ごし、その身を切るような寒さと気が遠くなるくらいの時の長さを嫌というほど感じさせられたら、流石にこれが現実だと認めないわけにはいけない、つまり、
なんでだか分からないけれど、並盛中の校門をくぐった先は、確かにイタリアだったのだ。
だから、俺が、
ようやく貌を出してくれた天道に身を晒し、路地裏で一晩を過ごした為にすっかりと冷え切ってしまった躰を少しでも温めようとしていた際に見かけた、年の頃、五、六くらいの黒髪の日本人風の子供に、
声をかけてやるかな、なんて思ったのは、決して、
明らかに浮浪児であることが察せられる襤褸(ぼろ)に身を包んだ数人の子供に取り囲まれ、鬱陶しそうに眉をひそめるそいつを、殊勝にも助けてやろうだなんて思ったからではなくて、ただ単に、
何か超自然的な現象が再び起きて元の場所に戻ることを期待するしかない以上、ただ漫然とそれを待つのではなく、善行を少しでも重ねていた方が、その不可思議な力も早く働いてくれるんじゃないか、なんて、ちょっと信心深いことを考えていたからだ。
浮浪児達が発するイタリアの言葉を理解出来ないのだろう、東洋系特有の吊った切れ長の瞳を持つ子供が、丁度、面倒臭そうな色を隠そうともせずに眼を細めて、
何言ってるのか全然分からない、と吐き捨てた、ので、
俺は、薄汚れた酒場の壁に背を預けたまま、口を開く。
「お前のネクタイピンが欲しいんだとよ」
子供は、異国の言語の響きの中で奏でられた日本語の音に反応してその黒い髪を僅かに揺らしながら振り返り、
訝しげに俺をじっと見詰めてから、視線を伏せて己の上質そうなネクタイを留める精巧なネクタイピンをつまらなそうに一瞥した。
「この子達は、僕のネクタイピンが欲しい、って言っているわけ?」
「違ぇ。友達が怪我をしたからハンカチを貸してほしいって言ってる」
浮浪児達が口にしていた言葉をそのまま日本語に訳して応えてやれば、
意味が分からない、と言わんばかりに子供はこちらを睨んできて、
その様は、なんというか、少しも可愛げなんてありはしない、でも、
少しでも早く元の場所に戻りたい俺は、喉元まで込み上げてきたむかつきを既(すんで)のところで嚥下し、
丁寧に言葉を付け加えてやる。
「お前がハンカチを取り出す隙を突いてネクタイピンを盗むつもりでいるんだよ」
へぇ?と片眉を軽く上げて子供が改めて浮浪児達に向き直る、と、
浮浪児達は、吊り眼の子供に突然東洋の言葉で話しかけた俺を胡乱そうに見上げつつも、自分達の分が悪くなってきたのを敏感に察したのだろう、
ありきたりの捨て台詞を吐くと、素早く踵を返して、ぱたぱた、と靴音高く逃げ出した。
「お前、一人?」
人混みの中へと消えていく浮浪児達の背を静かに見詰める子供になんとなく問いかけてみるが、子供は俺の声音なんて聞こえなかったのかのように身動ぎ一つしない、から、
仕方なく俺は自分が発した問いの応えを自分で見付け出すべく、視線を四方へと巡らせる。
観光客用に飾り立てられた大通りから一本路地に入ってしまっているこの通りは、大通りに立ち並ぶ上流階級向けのホテルや観光客受けしそうなこじゃれたバーに客を取られて寂れてしまった安宿や安酒場ばかりが下品な看板を掲げていて、
この国に住まう者でも、いわゆる下層階級の者でなければなかなか入らないような所だから、
勿論、というべきか、やはり、というべきか、
この子供以外に、イタリア語も解さないのにこんな場所へ足を踏み入れている日本人がいるはずもなく、
この子供は、その東洋人然とした容貌も、その口から発せられる日本語特有の高低の波が強い言葉の響きも、そして、その身に纏う無駄に仕立ての良い服も、
とにかく、全てが、こんな場にはおよそ相応しくなく、
悪い意味で、酷く目立っていた。
「てめぇみたいなガキが一人でこんな所にいたら、良いカモにも程があるぜ。さっさと親の所へ戻れよ」
野良犬でも追い払うみたいに、ひらひら、と手を振ってみせる、と、
子供はふとこちらを見上げ、どことなく鷹を思わせる鋭い瞳を音も無く細めて、
まるで握手でも求めるように、す、と手を指し伸ばしてきた、から、
お礼でもするつもりなのだろう、と別にさして深く考えることはせずに、
握手に応えるべく、子供の手に触れた、その、
刹那、
手に、激痛。
「っ、」
思わず大きく息を呑んでしまう、それでも、
情けなく悲鳴を上げるのだけは避けようと、ともすれば舌を震わせそうになる呻きを必死に噛み殺す、が、
子供は、微塵もそんなことには構う風を見せず、その小さな躰のどこにこんな力があるんだってくらい強く俺の右の中指を本来曲がらない方へ反らさせ続ける。