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□白鳥のドルチッシモ
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―「丘っておいいだけど」と女王さまの横槍だ、「丘ってものをそなたに見せてやれたらねぇ。それに比べれば、この丘なんぞ谷みたいなものよ」「まさか、そんなはずないわ」アリスはおどろいたおかげで、とうとう女王に口答えしちゃってね。「丘が谷になれっこないでしょ。そんなばかなこと―」赤の女王は首をふりたて、「ばかなことっていいたきゃおいいなさい。ばかなことならわたしもずいぶん聞いてきたけれど、それに比べればいまのなんぞは字引きみたいに正確よ」【鏡の国のアリス】―

[December 24]

 久しく使われていないのか、懺悔室は酷く埃っぽく、
 告解者用の椅子なんて、所々錆びているだけでなく、身動ぎする度に今にも壊れそうな悲鳴を上げている、けれど、
 高い位置に設けられた小さな窓から射し込む陽光は、纏う学ランの黒布を柔らかく温めてくれるし、
 遠くから響いてくるパイプオルガンの多重にぶれた旋律は、クリスマスイブ特有の、群れの煩わしい喧噪をかき消してくれる、それに、
 澄んだ天道の光の筋の中で、きらきら、とその身を煌めかせている粉塵だって、見ようによればそれなりに綺麗と言えなくもなかった、から、
 つまり、僕はこの空間がそれなりに気に入っていて、だからこそ、
 ぎぃ、と耳障りな軋んだ音を立てながら唐突に開かれた扉が、そしてそこから流れ込んでくる冷たい風が、不快で、
 静かに瞼を上げてそちらへ、じとり、と視線を向けてやる、と、

 古びた扉の陰から貌を覗かせた獄寺は、
 幼さを象徴する丸味を失い、しかし、かと言って成熟した骨格はまだ獲得し得ていない、端境期の危うさを感じさせる、男にしては華奢な肢体を有する十四の彼は、
 僕と眼が合うや否や、一瞬、躰の動きを凍らせ、でも、
 すぐに何も無かったかのように瞳を地に伏せて、思案に耽る者特有のどことなくふわふわとした足取りで、小さな懺悔室の半分程を占拠するオルガンの埃まみれの椅子に腰かけた。

 学校の女生徒達が、涼しげだと甲高い声音でもてはやす目元を思い切り歪め、
 陽光を吸い込んで鈍く光る髪を、がしがし、と粗雑に掻く獄寺の様を見れば、
 大した収穫が無かったのであろうことは、簡単に察しがつくから、
 わざわざ疑問形を用いることはせずに、確認する。
 「君の言う、ボヴィーノとか何とかって奴は見つからなかったみたいだね」

 ふわり、とパールグレイの細い髪を揺らしながら、獄寺は弾かれたように貌を上げ、
 恐らく、反論でも紡ごうとしたのだろう、その口を微かに開きかけたが、
 ふと思い直したのか、強く唇を噛むことで発そうとしていた全ての言葉を噛み殺し、
 貌を横へ背けて僕の言葉を肯定してみせた。

 喉元にまで込み上げてくる溜め息を、ぐっと呑みこむ。

 「そもそも、ここは本当に十年前のイタリアなわけ?」
 眼を細めて投げるように言葉を発せば、獄寺は、
 苛立ちを隠そうともせず、その柳眉をぎゅっと寄せ、

 お前何回疑えば気が済むんだよ、本当だって言ってるだろ、と、
 心底うんざりしたような声音を綴る、けど、
 僕は別に、疑っているわけではなくて、まぁ、昨日、

 クリスマスイブは明日であるというのに、イブ当日が思いやられるほど既に酷く喧しい(かまびすしい)商店街を抜けて応接室へと戻った瞬間、
 急に、世界を構成する全てのものが、紅茶に溶かした角砂糖のように消えていって、
 再び視界が焦点を取り戻した時には、眼前にいたはずの緑眼の子供が、見慣れた並盛中学のブレザーを纏った緑眼の獄寺隼人になっていて、
 自分を取り囲む景色も一変していた、なんて、
 到底、信じられないことではあるのだけれど、でも、

 実際、それは起こり得て、こうして奇妙な異国に留まらざるを得ない状況に陥っている以上、僕は、
 最早それを疑いたいわけではなくて、ただ単に、
 確認したいだけなのだ。

 ぎ、と今にも壊れそうな軋んだ音を奏でつつ、古びた椅子の背もたれに体重を預け、
 窓から射し込む陽光の筋が獄寺の肌に作る陰影を見るとも無しに眺めれば、
 獄寺は横目でこちらを見やり、面倒だと言わんばかりに深く息を吐き出して、
 衣嚢に差し入れていた右の手を抜き出した、そして、
 その白い指を、ひらり、とひらめかせる、と、

 瞬間、こちらへ向かって綺麗な放物線を描く鼠色。

 ぱしり、と円筒形に丸められた鼠色のそれを受け止め、視線を落としたら、
 細かいアルファベットがびっしりと並ぶ粗悪な薄っぺらい紙が数枚。
 「何これ?」
 「タブロイト」
 オルガンの小さな椅子の上で器用に胡坐をかきながら短く応えた獄寺に、
 何これ?と、もう一度同じ問いを繰り返せば、彼は、
 僕が、タブロイトという単語を知らないと判断したのか、

 新聞、と吐き捨てた、が、
 そういうことが、聞きたいわけではないから、仕方なく、
 言葉を付け加えてやった。
 「何でこんな物を君が持ってるの?」

 は?と訝しげに眼を細める獄寺に、
 思わず、指が袖口に仕込んだトンファーをなぞる。
 「金、使ったわけ?」

 恐らく今日発行されたものであろうタブロイトを、彼が持っているということは、彼が金を出して買ったということで、
 それは、常であったら、別に大したこと無いのだけれど、
 この状況で、それはおかしい、だって、
 昨日、彼は、
 ここは十年前の世界なのだから、野口や樋口が描かれた新札は使わない方が良いと言って、だから、
 ホテルなどが使用できず、仕方なく、こうして古びた教会に忍び込んで夜を明かす羽目になったのだから。

 「…譲ってもらったんだよ、今日の新聞」
 半眼で静かに睨んでやれば、ようやく何を指摘されているのか分かったのか、獄寺は微かに視線を逸らし、
 ばつが悪そうに呟いた、から、

 ああ、これはもしかしたら盗んできたものなのかもしれない、と、
 僕は改めて手の中の鼠色のタブロイトを見やり、
 半ば無意識に小さく息を吐き出した。


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