MAIN
□Let Me Kiss You at Front of the Gat e of the Garden of Eden Which is the Name of the Deserted Sex Hotel
1ページ/2ページ
ラミエルという名の天使の姿を、どこで見たのかは思い出せない、
家の書斎にそういった画集があったのか、もしくは、テレビか何かの番組で目にしたのか、
いや、違うな、確か、あれは、
ああ、そうだ、副委員長だ。
随分前に、ラミエルという名がタギングされた下手くそなグラフィティが校舎に書かれたことがあって、その時、何気なく、
ラミエルって何、と呟いた僕の独り言を副委員長が拾い上げ、
その名を有する天使が描かれた誰だかの画集を持ってきたのだった。
印象派に良く見られる独特の筆遣いで描かれたそのラミエルは、確か、
教会のステンドグラスを背に、柔らかく瞳を閉じ、
色硝子を透過して派手派手しい色彩を持った光に、その十二翼の純白を艶やかに染めさせていて、
その様は、さすが七人の天使に数えられているだけあって、とても優美であったけれど、同時に、
男とも女ともつかぬその容貌がいっそ冷たく感じる程に整っている所為か、はたまた、形の良い唇に刻まれた孤に人の子を嘲るような色が感じられる所為か、どことなく背徳的で、
エノク書の中で、背教者たちの指導者、とされているが故に堕天疑惑が付きまとうこの天使らしい、冒涜的な妖美さを感じたのを覚えている、そして、
そのラミエルの絵姿が、今、僕の眼前で、
下卑たネオンサインの光に染まる粉雪に彩られながら、しなやかなその右の手を天へと指し伸ばす彼の風体に、
どういう訳か、ぴたり、と重なって、僕は、
一種の既視観さえ感じていた。
身軽にガードレールへ腰を掛ける獄寺隼人は、粉雪の冷たさを微塵も感じていなさそうなやり方で真っ直ぐに背を伸ばし、寂れたスナックバーや風俗店の下卑たネオンサインにその頬や髪を染めさせつつ、
あのラミエルのような、ぞっとするほど艶やかな微笑を浮かべ、
高く掲げた右手の、その細く白い指にはさんだ数枚の一万円札を、ひらりひらり、と風になぶらせている、そして、
その、好戦的な光を宿す、色素の薄い灰緑色の瞳が静かに見下ろすのが、かっちりとしたスーツを着込む、見慣れぬ顔の中年の男、で、
そいつこそ、ガードレールに座していた獄寺に唐突に近寄っていき、彼の耳元で何かをささやいてから、
その手に、今まさに痛いくらい冷たい風に翻っている一万円札を、こっそりと、握らせた男なのだ。
醜い情欲に濡れた瞳をいやしく細め、唇を歪めるようにして笑った男の鳩尾に、
銀色のいかつい指輪に彩られた拳を的確に叩き込んだ獄寺の様は、なかなか鮮やかだった、と思い返しながら、
腹を押さえて地にうずくまる男と、顎を軽く上げてそれを見下ろす獄寺隼人を見るともなしに眺めたまま、なんとなく、
冷え切った傘の柄を、握り直してみる。
吸い寄せられるようにアスファルトへと舞い降りては溶けていく雪の所為で、水気が靴の革に染み込んでくるのが分かったが、
帰路を踏むべく踵を返す気には、何故か、ならなかった。
こうして改めて獄寺を眺めてみると、なるほど、
学校の女生徒達が騒ぐのも無理はないのかもしれない、と思えるくらい、彼の容貌が整っていることが分かる、恐らく今なら、
彼の背に十二翼の羽根が見えたって、僕は自分の眼を疑おうとは思わないだろう、つまり、
安っぽい電飾の光に染まった彼は、ちょっと人間には見えないくらい、
毒々しくも美しかった、否、もしかしたら、
毒々しくて美しいのかもしれない、けど、まぁ、
だから何だ、と言われたらそれまでではあるのだが、少なくとも、
見えない旋律の指揮を取るかのように、ひらり、と右の手首を翻す獄寺の所作に呼応して、宙に舞った万札が、
粉雪の間を縫うようにして音も無く地に落ち行く様から、眼が離せなくなるくらいには、
感銘を受けた、と言えるのだろう。
雪に濡れる爪先が、じんじん、とむず痒いような痛みを訴えてきているけれど、
それでも脚は動かない。
気紛れな風に弄ばれながら、万札が雪に濡れたアスファルトの上に惨めに貼り付く、
その、刹那、
一つ路地を隔てた向こう側にある国道に車を走らせている群れが、来る(きたる)赤信号の気配に備えてたまたま一斉にアクセルから足を離したのか、はたまた、
寂れたこの旧道を歩む人々の、息を吸い込みきった、もしくは息を吐き出しきった瞬間訪れる呼吸の切れ目ともいうべきあの無呼吸の瞬間が偶然重なったのかは分からないけれど、とにかく、
一瞬、世界を満たす音が、水面に落とされた水彩絵の具のように、薄くなって、消えていき、代わりに、
一つの旋律が、波紋のように広がってきて、耳を打った。
それなりに澄んだ音だ、恐らく、ピアノかそこらだろう、そして、
それが奏でる旋律は、あまり音楽に親しまない僕でも聞いたことがあるとすぐに断言出来るくらい、有名な響き。
少し努力すれば題名を思い出せそうで、
半ば無意識に、その旋律を辿って貌を上げる、が、その時、
ふと、唐突に、
ふぁん、と遠くでクラクションが鳴って、そうしたら、
それが、あたかも世界の静止を切り裂く合図だったかのように、
通りを走る車のエンジン音だとか、人の群れの喧騒だとかが、またその喧しさを取り戻し、
繊細なピアノの旋律は、その騒音の中に、簡単に埋没していった。
相も変わらず、不様に己の腹を押さえる中年の男も、
その脂肪で膨らんだ貌をまだらに紅く染め、引き攣った唇を大きく何度か動かしているから、
恐らく罵声か何かを獄寺へ向けて吐き出しているのだろうけれど、
彼の声音も喧騒の帳(とばり)の向こうにあって、
こちらまでは届いてこない。
どことなく気怠げにその瞳を細めた獄寺が、
そのパールグレイの髪を彩る星屑みたいな雪をぞんざいに払い、
す、と肩を上げて息を吸い込む。
それは明らかに、何か言葉を発する為の所作で、
彼が何と紡ぐのか、少し興味を引かれた僕は、
半ば無意識に、右の脚を前に踏み出していた、
が、その足音に気付いたのか、刹那、
中年の男が弾かれたようにこちらを見やり、
僕をその視界に入れるなり、血走った瞳を大きく見開く、そして、
一瞬、呆けたように口を、だらり、と開いたかと思えば、
あの愚鈍そうな体躯からは想像することが出来ないくらい俊敏な所作で、
ぱっと、踵を返してしまった。
ち、と思わず舌打ちがもれる、そこで初めて、
僕はあの男を咬み殺したかったんだと気が付いた、まぁ、
あんな虫酸が走る光景を見せつけられたのだから、当然と言えば当然だけど。
通りを歩く人にぶつかりながら、溝鼠のように逃げていく男の背から視線を外し、
薄汚れたガードレールに未だ座したままの獄寺を見詰める。
獄寺は、嫌そうな色を隠しもせずに貌を背け、
その彼の所作に併せて、雪に濡れたパールグレイの髪が、ネオンサインの光を、ちらり、と鈍く弾いた。
その光に惹かれたわけでは、多分、ないけれど、
逃げた男の方へ反射的に向けていた爪先を戻し、彼の元へと歩み寄る。
臆する風も、物怖じする風もなく、視線だけで静かにこちらを睨みつけてくる彼は、
弱い草食動物のわりにはなかなか度胸がある、哀れなことに、
度胸があるというのと、賢いというのはまた別問題なのだけれど。
「逃げないってことは、咬み殺される覚悟があるってことだよね?」
ぎゅ、とアスファルトに薄く積もった雪を踏み締めながら、肚の奥から込み上げてくる情動に忠実に口の端を持ち上げれば、獄寺は、
軽く鼻を鳴らして酷く挑発的に笑う。
「何でてめぇに咬み殺されなきゃねぇんだよ。今は群れてなんていねぇぜ?」
「ああいうの、虫酸が走るんだよ」
ちらり、と視線を、中年の男が走り去った方角へと向けてみせると、
それを追った獄寺の瞳が、走り来る車のヘッドライトの光を受けて、その虹彩の灰緑の透度を限りなく高くし、
それはもう、人間の眼と言われるよりは、硝子玉とか、飴玉とか、そうだな、それこそ、
最後の審判を待つ魂達の監督者たるラミエルの、あの不可思議な、天使にのみ許された異色の瞳と言われた方が、なんだかしっくりくる色を見せた。
「文句なら、あっちに言えよ。俺は、」
獄寺は、そっと面(おもて)を伏せてその表情を、中性的な印象を与える長めの髪で隠し、
ガードレールに深く腰掛けている所為でアスファルトに届かない爪先を、ふらりふらりと揺らす。
それは、見様によっては酷くしおらしく、メシアを磔にした憐れむべき人間達の為に心を痛めていた天使がいたとしたら、きっとこんな具合だろうって感じであったけれど、僕は、
獄寺の言葉を皆(みな)まで聞かず、
雪と同じくらい冷えたガードレールに添えられた、雪と同じくらい白い彼の右の手首を掴んで、
ぐい、とその手を獄寺の眼前に掲げさせた。
「“俺は”、何?まさか、被害者だ、なんて言わないよね?」
思いのほか細いその手首と、それを覆うコートの袖の隙間に指を差し入れ、
そこに隠された一枚の万札を、抜き出してやれば、
獄寺は、あからさまに目元を歪めて、ち、と小さく舌打ちをこぼしたが、
何かを吹っ切るように短く息を吐き出すと、
酷く挑発的にこちらを見上げ、
艶やかにその形の良い唇の端を持ち上げてみせた。
「んだよ、少しくらい慰謝料貰ったって罰(ばち)は当たらねぇと思わねぇ?」
一瞬前のしおらしさはどこへやら、
ネオンサインの瞬きに併せ、毒々しい色に染まって煌めく雪が降り来る中、切れ長の瞳を猫のように細めて、ちらりと舌を出すその様は、まさに、
天を欺く堕天使のそれ以外の何ものでもなくて、
その灰緑色の瞳に宿るどこまでも好戦的な光は、
魅力的、と言ってあげても良い感じだった。
「思う、って言うと思う?」
抜き取った万札を獄寺の眼前で、軽く揺らしてから、くしゃり、と一息に握り潰し、そして、
それを、そのまま、学ランの衣嚢へと突っ込む、そうすれば、
獄寺は、きっと、その切れ長の瞳を鋭く細めて噛み付いてくるだろうと思った、のだが、
案に違って(たがって)獄寺は、
さして興味もなさそうに、ふい、と視線を逸らすと、
乱れ舞う雪が貌に触れるのを厭わずに天を仰いだだけだった。