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□論客いたちと水掛けごっこ
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欠伸を、噛み殺す。
若干うんざりしながらそれを行ったのは、ひとえに、先程から幾度もそれを繰り返してきているからだ。
時折窓硝子を鳴らすそこはかとない花の甘い香りを纏った風は、未だ冬の頃の鋭さを完璧に捨て去っていなくて、だからきっと、
校庭を囲むように植えられた樹々の枝を大きく揺らすあの風の矢面に立てば、皮膚は肌寒さを知覚して背筋が震えるのだろうけれど、
こうして、窓硝子を一枚隔ててしまえば、暖かく緩んでいく大気に抵抗するかの如く吹き荒れるそれも、単なる絵画の表情の一つとなり、
室内は、純粋に春めかしい黄味を帯びた陽光の恩恵だけを受け、いっそ気怠いくらいの暖かさに支配されている。
更に、肩に羽織った学ランと、体重を背凭れに預けて座している書物机の椅子の黒が、嬉々として柔らかい陽射しを集め、吸い込むものだから、
四肢が心地好く重くなる陽光の独特の香りに、四方をすっかりと取り囲まれてしまっていて、
その上、先程から応接室の内に響く乾いた音が、まるで潮騒のように単調な、そして樹海の中で鳴る鳥の声音のように静かな音だとくるものだから、もう、
眠気を追い払えという方が無理なような気がしてくる。
まぁ元より、何としても睡魔を払わなければならない謂れ(いわれ)があるわけでもないので、僕は、
ひらり、ひらり、と薄い頁(ページ)が捲られる機械的な音をぼんやりと耳に入れながら、肘掛けへ頬杖をついてみた。
窓硝子越しの外界へ何気無く向けていた視線を室内へと流せば、
視界に入るのは、最近やけに見慣れたパールグレイの煌めき。
ローテーブルを挟んで対になるように置かれたソファの片方へ座し、柔らかな陽光にそのパールグレイの髪の輪郭を白銀色になぞらせている獄寺は、呆れたことに、
僕が見るともなしに眼下の校庭を見下ろしている間、寸分も身動ぎしなかったらしく、
ソファに浅く腰掛けて身を乗り出す様も、ローテーブルに置かれた小さな広辞苑を覗き込むその瞳の真剣な灰緑色も、
先程からちっとも変わっていない。
ふわり、と喉の奥から込み上げてきた欠伸を、今度は噛み殺さずに、一つこぼす、と、
書物机の傍らに佇み、その腕に抱えたラックトップのキーを叩いていた草壁は、僕の機嫌が悪いと思ったのか、微かにその肢体を強張らせた。
あの、と居心地が悪そうに身動ぎし、彼は、
口を噤んでただひたすら広辞苑の頁を捲る獄寺を、ちらり、と気遣わしげに見やりつつも、
僕が特に何の反応も見せずにいれば、一切の問いを呑み込むように大きく喉を上下させて背を改めて伸ばし、
腕の中のラックトップをそっと書物机の上に置き、そのディスプレイを僕が見易いように傾ける。
「これが、実物です」
常よりも低められた声音で発せられた草壁の言葉に、椅子の背凭れから気怠い上体を起こしてディスプレイを覗き込む。
酷く見辛い黒の背景に浮き上がるのは、並中裏サイト、という悪趣味な紅い題字。
おどろおどろしいフォントで書かれたそれに、半ば無意識に溜め息がこばれた。
一昔前に流行した代物が、
ようやく、と言うべきか、今更ながら、と言うべきか、とにかく、
ついにこの並盛中学にも進出してきたらしい。
「この掲示板立ち上げた奴と、書き込んでる奴らの検討はついてるわけ?」
適当に画面をスクロールして虫酸が走る文字の群れを眼で追いながら問うが、いつもであればすぐに返ってくる草壁の声音が鳴らない。
ちりり、と奥歯で疼く虫酸が一際その強さを増すのを感じつつ、視線だけを上げて草壁を射る、と、
彼は、やはりどうしても気になるのだろう、控え目にではあるが不可思議そうに獄寺を眺めていて、でも、
まぁ、草壁が訝しく首を捻りたくなってしまうのも、無理はないことであるとは思うから、
咎めることはしないでおいてやる。
誰であったとしても、もし、
自分が入室した際、部屋の中で酷く言い争っていた二人が、
所用で彼らを残して退室し、再び四半刻も空けずに戻ってきた時うって変わって静寂に沈んでいたとしたら、何があったのかと不審に思いたくなるだろう。
そして、実際、
先程草壁が、裏サイトの掲示板をプリントアウトした紙束を持ってこの応接室の扉を押し開いた時、僕と獄寺は世間でいうところの口喧嘩の真っ最中であったのだが、
掲示板の実物が見たい、と命じて彼を追い出してから、彼が忠実にラックトップを抱えて再び扉を開くまでの短い間に、
獄寺は、先程までの剣幕を忘れたかのように口を噤み、黙々と広辞苑にその瞳を落としているのだ。
両者共に静寂を守り、詰りあう(なじりあう)ことも嘲りあうこともしていないながらも、
その静寂が、決して穏やかなものではない故に、第三者の立場からでは喧嘩が終焉を迎えたのかどうか判別出来ないのだろう、
無事に話は付いたのですか、といかにも問いたげな視線をこちらに向けてくる草壁は、
良い意味でも悪い意味でも聡い。恐らくは、
この数ヵ月の間に、僕と獄寺の距離が、それこそ異常な程に近付いたことを既に承知しており、
それを踏まえた上で、口論の行方を静かに案じているに違いない。
脚を組んで書物机に頬杖をつきながら僕は、
草壁のお節介極まりない視線を無視し、ディスプレイへ瞳を戻した。
あえて草壁の問いを黙殺したのは、わざわざ懇切丁寧に応えてやる義務なんてないからでもあるが、
どうせ僕が説明してやらなくたって、そう遠くはない未来に、草壁は自力で応えを手にするであろうことが分かりきっているからでもある。
手持ちぶさたにタッチパッドを操作して、下に流れていく画面を見るとも無しに眺めつつ、
そろそろかな、と口内で呟いてみる。すると、
刹那、まるでそれに応えるかのように獄寺はふとその面(おもて)を上げ、
ばん、と音高く広辞苑を閉じながら、そうだな、例えば、
天敵である犬の力を借りて鼠を捕まえた猫のような、まぁ、簡単に言うなら、
その瞳の灰緑色を尖らせて威嚇しつつも、ある種の達成感に突き動かされて白い頬を緩める、という不均衡極まりない表情で、
雲雀、と啖呵でも切るかのように僕の名を口にした。
「この、あんぽんたん!」
「…また随分古めかしい言葉を見付けたね」
なかなか実際に誰かが発しているのを聞く機会がない単語であるだけに、
それが貶し言葉であることは重々承知しているけれど、不思議と全く苛立ちが煽られない。
一重の瞳を丸くし、獄寺とこちらを交互に見やっている草壁は、
呆けたように瞬きをただ繰り返し、混乱しています、って全身で体現していたけれど、構わずに放っておく。
草壁なら、あと数秒すれば、真実に辿りつくはず。
つまり、僕らの口喧嘩は、まだ終焉を迎えてはいないということに。
「古かろうが新しかろうがどうだって良いだろ」
草壁の困惑には目もくれず、獄寺はソファから勢い良く立ち上がり、
ぴんと伸ばした人差し指を真っ直ぐにこちらへと突き付けてくる。
「と言うか、話を反らそうとするんじゃねぇよ。言葉なんてどうだって良いんだよ」
へぇ、と思わず僕は短く声音をこぼした。
なるほど、一応話を反らされている自覚はあったのか。
けれど別に、最初から話を反らしてやろうと思っていたわけじゃない、
獄寺のあまりに新鮮味のない小言に、心底うんざりしたのは事実だけれど。
どうして昨夜、十代目とやらとの約束を反故にしたのか、とかなんとか、
応接室の扉を断りも無しに唐突に押し開いた獄寺が言い放ったそんな謂れ無い因縁が、確か、
そもそもの発端だった。
どうやら、僕に何か用があったらしい赤ん坊が、昨日の二十時頃に沢田の家に来るよう僕に伝えろと沢田に指示し、
沢田も、僕にそれを確かに伝えたという。でも、
僕はそんなこと一言も聞いていなかった。
まぁ、そういわれてみると、沢田が昨日、廊下かどこかで声をかけてきたような記憶がなくもないから、実際にその言伝を僕はこの耳に入れたのだろうが、
沢田が、おどおどと目障りなほどにその身を縮こめ、しどろもどろに言葉を綴った所為か、それとも彼が赤ん坊の名を出さなかったからか、とにかく、
僕は全く気に留めず、勿論呼び出しに応じることもしなかった、のだが、
僕が約束の刻限に沢田の家に行かなかったことで、沢田は赤ん坊にしこたま叱られたらしく、
それを聞いた獄寺の瞋恚がこちらへと回って来た、という、常通りと言えば常通りの展開だ。
守護者がどうの、心構えがどうの、十代目がどうの、と、
獄寺は、こういう時はいつもそうであるように声を荒げて捲し立て、僕も、
いい加減、彼の声音で綴られる “十代目”という単語には、ほとほとうんざりしていたから、
最初はそれなりに真剣に、二度と僕の前でその単語を口に出来ないよう仕付けてやろうと思って対峙していた。
が、いつもは違和を全く感じさせないくらい流暢な日本語を使いこなす獄寺が、突然、やはり酷く頭に血が昇ってしまっている所為なのか、
てめぇの奇特な行動に十代目はいつも頭を痛めていらっしゃるんだよ、なんて言い出すものだから、
一気に気が削がれてしまう。その上、
“奇特”は誉め言葉だと指摘してやると、獄寺は、
酷く無防備なやり方で眼を丸くし、
でも“奇特”の“奇”は“奇人”のそれだろ?と、
至極真剣に訴えてきて、更に、
あまりの検討外れ具合に思わず二の句が継げなくなった僕の様(さま)に、流石に分が悪くなったのと悟ったのか、すぐに話筋を返るべく己の問いを引っ込めたのは賢かったが、その直後、
“十代目”という名を“蛇蝎の如き”という枕詞をつけて紡ぎ、
僕に溜め息を吐かせることになった。
“蛇蝎”は貶し言葉だと教えてやっても、
蛇も蝎(さそり)も強くて格好良いじゃねぇか、と獄寺は首を捻る。