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□エディプス的偶像礼讚
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エディプス・コンプレックス、と、
そういえば彼に言われたことがあるのを、唐突に、思い出した。
そこまで古い記憶じゃない。それは、
確か、最後に彼に会った時に、彼から言われた言葉だから、
聞き慣れぬ単語に、思わず構えていたトンファーを降ろし、眉をしかめてしまったあの時から、
まだ、二年程度しか経っていないことになる。けれど、
あの日、その、日本人にはない灰緑色の瞳に、苦しげな光を宿しながらも決然とこちらを見据え、
エディプス・コンプレックス、と、
それが、まるで世界に蔓延る(はびこる)全ての悪の根源の名であるかの如く噛み締めた彼は、
二年の歳月を感じさせぬ程、あの日と同じやり方で、
静かに背を伸ばし、視線を真っ直ぐにこちらへ向けてきていて、
だから、僕は、一瞬、
また彼の口から、あの単語が綴られるのではないかと、半ば夢でも見ているかのようなぼんやりとした心地で、ほとんど無意識に身構えた、のだが、
勿論、僕の預かり知らぬ所で、世界の時が二年巻き戻っていた、なんてことがある訳もなく、
短く息を吸い込んで軽く肩を持ち上げた彼が、発した言葉は、
二年前を彷彿とさせる要素が、欠片も無いものだった。
「墨、入れてくんねぇ?」
ぽつり、と独り言のように紡ぎ、その後、
少しばつが悪そうに、瞳を地に伏せる彼の様(さま)は、
酷く、本当に酷く、懐かしいもの。
己の願望を口にする時、それがあたかも、後ろめたいくらいに気恥ずかしいことであるかのように、決まって面(おもて)を地に伏せるのは、彼の癖みたいなものだった。
こちらが何も応えないでいると、窺うように、そろり、と上目で見詰めてくるその所作も、
僕の記憶の中の彼のものと、寸分も変わらない。けれど、
二年も僕の前に姿を見せなかった彼が突然訪ねてきたことへの喫驚が一段落し、
眼前の彼と記憶の中の彼をこうして改めて照らし合わせると、
変わった箇所もかなりあることに気付かされる。
まず、背が伸びたような気がする。
数年前に粗方の成長を終えた僕とは違い、僕よりも十年も遅くこの世に生を受けた彼はきっと、今まさに、一般的に成長期と称される時期を向かえているのだろう、
彼と過ごしていた時よりも、彼の目線が微かに上がっている印象を受ける。それに、
その、透度が高い孔雀石のような虹彩を抱く瞳は、涼しげな切れ長を見せ、
その面の輪郭だって、凛としたラインを示している。
幼子特有の丸みを失い、すらりと伸びた四肢。気の強さを表すかのように、斜め上へと真っ直ぐに走る細い眉。
透き通るような肌の白さは、幼さ故ではなくその身に流れる異国の血故であったらしく、相も変わらず白磁のようで、更に、
こちらも色素の酷く薄い、雪のちらつく早朝の曇天のようなパールグレイの髪が、男にしては少々長く伸ばされ、後ろ髪が肩を撫でている所為か、どことなく、容貌全体が中性的で、
気怠けに双眸を細める所作とか、華奢さが保たれている薄い肩など、端境期特有の不均衡さと相俟って、
早熟故の危うい色香が、ある。
銀色の厳つい装飾具は、記憶の中の彼も少なくない数を纏っていたが、一段とその数を増し、
さして大きくないボストンバックの柄を握る彼の手首には、特に重そうな鎖が幾重にも巻き付いていた。
彼の趣味は相変わらず理解出来そうにもないな、と軽く溜め息をこぼせば、
獄寺隼人は、そのパールグレイの髪を静かに揺らしながら、微かにその面を傾けた。
「雲雀…?」
水無月にしては珍しい、抜けるような薄い青色の空を背景に、七分の袖から伸びる細い腕を、ひんやりとした涼を持つ風にどことなく寒そうに弄らせながら、
玄関の鴨居(かもい)を跨ぐには許可が必要だとでも思っているのか、ただじっと石畳に長い影を落とす獄寺の様(さま)は、
なんとなく、ではあるのだけれど、なんだか、
しばらく姿を見せなかったにも拘わらず、ある朝ふらっと何食わぬ貌をして、玄関の前に両手を揃えて座り込んでいる家出猫を思わせて、いや、
でも、良く考えれば、
獄寺だって、あれは正確には“家出”と言うと語弊があるのかもしれないけれど、この家からある日突然出ていったことは確かなのだから、
家出猫を出迎えたような感覚は、あながち的外れでも無いのかもしれない、まぁ、
獄寺の場合、この家に帰って来る為に、ここへ戻って来た訳ではないらしいけれど。
「…とりあえず、入れば」
漆黒の着流しの袖をさばいて踵を返し、
突っ掛けた下駄を、からん、と鳴らしつつ脱いで式台に足を載せる。
背後で、促されるまま獄寺がおずおずと三和土(たたき)を踏む気配を確認してから、
取り敢えず客間に通せば良いか、と庭に面した廊下へ歩を進めた、ら、
たんたん、と軽い足音と共に追いすがって来た獄寺は、
まるで香りを味わうかのように深く息を吸い込み、更に、
青々とした新緑に彩られた左方の庭と、
淡々と真っ直ぐに伸びる、磨き上げられた廊下の右方に並ぶ襖(ふすま)へ、年相応な邪気の無い所作で首を振りむけ、
うわぁ、と心底感嘆したような声音をこぼす。
「すげぇ、懐かしい」
二年ぶりだからね、と相槌を打とうとしたが、
その言葉では、その裏に獄寺が嫌味の色を感じ取る可能性が多分にあったし、
別段、僕は嫌味を言ってやりたい気分でもなかったので、沈黙を守ることにする。
ほとんど無意識のうちに、常よりも歩みの速度を落としているのは、
出会った当初、八つかそこらの幼子であった獄寺の歩調に良く併せてやっていた名残だ。
身長がこちらの半分も無かったあの頃とは違い、今なら恐らく、こちらが常の速度で歩を進めたとしても、獄寺は息を切らすことなく付いてくるであろうことは分かっているけれど、
一度付いてしまった癖はなかなか抜けないものだな、なんて、
こっそりと口内で噛み締めながら、何気なく、右方へ視線を流せば、丁度、そこの襖が開いていて、
室内にいた数人の男たちに、慌てて頭を下げられた。
「ちったぁ真面目に十代目やってみてぇじゃねぇか、お前」
獄寺は、悪戯っ子のような笑みを浮かべ、揶揄するようにこちらの面(おもて)を覗き込んでくる。
まぁね、と短く応えてやれば、彼は、
廊下の縁に正座して僕を見送る男達を、首を捻って見やり、
ぽつり、と独り言のように声音をこぼした。
「九代目に見せてやりたかったぜ」
九代目、というその短い単語に、眉根が寄るのはもうずっと前、
それこそ、獄寺がこの家に来るよりも前からの無条件反射だ。が、
じわり、と肚の底でどす黒い情動が蠢き、虫酸が込み上げてくるのは、獄寺が二年前、
その“九代目”と共にこの家を出ていった時からの、条件反射。
「あの人のこと、君が看取ったの?」
皮肉げに言葉を綴れば、獄寺が微かに目を伏せるのが、視線を向けないでも気配で分かった。
獄寺は、生物学上、僕と父子という関係にある男のことを僕が、あの人、と呼ぶことを、好まない。