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□毒無し水銀の甘味
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 昨夜、重く天を覆った鈍色の雪雲はどこへやら、
 見上げた空には白い綿雲一つなく、
 青空、というよりは、芸術家が細心の注意を払って斑(むら)なく染め上げた織物、と言われた方がしっくりくるような、僅かな濃淡さえ存しない完璧な蒼が、見渡す限り広がっている。
 時折思い出したように駆けてくる風は冷然としていながらも、どことなくはしゃいでいるかのように軽やかで、
 肺が洗われるような、胃の辺りが、きゅ、と締め付けられるような、色の無い雪の香りを、徒(いたずら)に弄ぶ。

 姿は見えないけれど、どこからか確かに響いてくる微かな鳥の声音は、世界に満ちる厳かな静寂を際立たせ、
 天の頂点へ向けてゆっくりと、しかし、確実に高度を上げていく天道が放つ陽光は、痛いくらいに冷え切った大気の所為か、鋭利な程に澄んでいた。

 思わず、眼を細める。
 煙草を求めて半ば無意識に下衣の衣嚢へ差し入れていた指からも、気付けば、ふっと力が抜けている、つまり、
 それくらい、粉砂糖のような雪の白に彩られた世界は、やけにきらきらと輝いていて、
 ちょっと嫌になるくらい、美しかった。

 ベランダの欄干に手を掛ければ、
 昨夜外し忘れた右の中指の厳つい指輪が、かちん、と硬質な音を立てる、のだが、
 その何てことのない響きさえも、信じられないくらい綺麗に感じられる、更に、

 雪に濡れたその欄干のステンレスの、骨に沁みる冷たさも、
 疲労故の微熱に苛まれるこの身には、酷く心地好いのだから、もう、なんというか、
 救えない。

 本当救えないよなぁ、と口内で噛み締めながら、俺は、
 深く息を吐き出した。

 この、ベランダから臨む景色は、うんざりするくらい見慣れたものであるはずで、
 実際、眼下の街路樹の枝の枯れ具合も、その傍らの電信柱に貼られたいかがわしい風俗店のチラシの風化の仕方も、昨日と寸分も変わりはない、それなのに、
 雪の白に塗り潰されているだけで、陽光はあちらこちらで鋭く反射され、
 起き抜けの眼には残酷なくらい、世界の明度は増していた、そして、

 その所為で、側溝の脇に転がる石ころさえ濡れた光華を放ち、まるで宝石のように、見える。

 世界ってこんなに綺麗だったっけ、という思いを禁じ得ない、でも、まぁ、

 なんというか、
 この瞳に、世界が驚くほど綺麗に映る理由が、単に、
 純度の高い粉砂糖のような雪に彩られているから、ってだけではないことを、知っているから、

 酷く、やるせなくて、

 自嘲気味に唇の端を持ち上げてみた、ら、
 刹那、
 ふと唐突に、がらり、と少し軋んだ音を奏でて背後のドアが開き、

 暖房器によって人工的に暖められた空気が、背に雪崩れかかってきた。
 次いで鳴る、低い響きの声音。
 「…ねぇ、君の家の冷蔵庫ってどこにあるわけ?」

 首を捻って振り返れば、
 思いのほか至近に漆黒があって、
 なんとなくたじろいでしまう。

 室内と外界を分かつドア枠に軽く肩を凭せ掛け(もたせかけ)、
 こちらをじっと射てくる雲雀のその闇色の瞳は、
 まるで底無し井戸の水面みたいに、凪いでいて、
 常の奴らしく、そこに欠片の情調も浮かべていない、のだけど、

 ともすれば、俺は、その闇色の中に、
 昨夜、間接照明の淡い橙を吸い込んだこいつの眼に浮かんだ、あの、針水晶みたいな原始的な光の片鱗を、見出だしてしまいそうで、気まずくて、
 たまらず、視線を逸らし、でも、
 怖気づいたとか思われるのは、非常に癪だったから、何てことない風を装って大きく肩を竦めてみせた。
 「どこって…、台所にあるだろ、普通に?」
 「中にほとんど何も入ってない白い箱はあったけど、まさかあれが冷蔵庫とか言わないよね」
 瞳を逸らしたことを咎めることはせず、ただ淡々と雲雀は呆れとも嘲りともつかぬ色が滲んだ語調を綴る。

 ちりり、と奥歯が疼いた。何だってこいつは、
 いちいち癇に障る言い方をしやがるんだか。
 込み上げてきた情調に忠実に眼を細め、先程感じた気まずささえ思わず忘れて、横目で雲雀を睨みつけてやる、と、
 奴は、まるで、
 やっとまともにこっちを見た、と言わんばかりに小さく溜め息をつき、
 白いマグカップを握った手を、ずい、と眼前に突き出してきた。

 反射的に、受け取る。
 立ち上る湯気から、中に温かい液体が入っていることは察せるが、
 覗き込んでみても、陽光を受けて揺れるそれに色はなく、また、
 匂いも全くしやしない。

 「…何だよ、これ」
 「白湯(さゆ)」
 何てこともないように雲雀は応え、
 いかにも退屈です、って感じに欠伸を噛み殺しながら、腕を組んだ。

 味気ねぇな、と呟きつつも、俺は、
 その、ただの温い湯しか入っていないマグカップを、しかし、
 両の手で、まるで大事なものを掌の中に収めるかのように、包み込んでしまうのを止められない。

 幾何学な細い線を絡みあわせつつ、天へと舞い上がっていく白い湯気と、
 世界にあふれる光を、きらきら、と踊らせる澄んだ水面を見せる白湯は、
 別に珍しいものでも何でもないはずなのに、やはり、
 昨日までのそれとは、似ているようで、実のところ、原子の核の構造からして全く異なる物質であるかのように、
 眼が覚めるような美しさがある。

 「牛乳でも冷蔵庫にあればそれを温めてあげても良かったんだけどね」
 口を付けるでもなく、ただじっとマグカップを見詰める俺の様を見て、何を思ったのか、雲雀は、
 どことなく言い訳がましく付け加えた。

 なんかそれが、やけに奴らしくない気がして、
 駆けてきた一陣の風の冷たさに首を竦め、白湯に落としていた視線を上げる。そうすれば、
 どこか眩しげに瞳を細める雲雀と、視線が絡み合う。

 あちらこちらで雪に弾かれた陽光が跳ねる、透度の高い幻想的な世界の中、
 ベランダから臨む景色や、マグカップの中の白湯が、やたらと輝いていて、酷く見慣れないのと同じように、
 見るからに冷たそうなステンレスのドア枠に寄りかかる雲雀も、また、
 なんとなく、眼に馴染まないのだけど、
 でも、その理由は、至って簡単で、つまり、

 違和感の正体は、雲雀が、
 お馴染みの、漆黒の学ランとか、白いワイシャツとかではなくて、
 胸元に大きなクラウンのエンブレムが縫い付けられ、銀色バックルが袖口と襟元を装飾する、細身のパーカーを、
 誰が見ても一目で雲雀のものではないと察せられる服を、まぁ、
 要は、俺の服を、
 纏って、いるからだ。

 あんま似合わねぇな、と半ば無意識に弧を描きそうになった口元を隠すように、白湯の入ったマグカップを唇へと近付けつつ、

 それにしても、と眉根を寄せ、
 ふるり、と肩を震わせる。

 悠然と組まれた雲雀の腕は、その肘の辺りまでパーカーの袖がまくり上げられていて、
 寒さを感じないのか、って疑いたくなるくらい、本人はしれっとしているけれど、
 微熱の所為で骨が震えているこちらの身からすると、
 見ているだけで背筋がぞくぞくしてくる。
 「…袖捲んなよ。生地が伸びるし、何より見てて寒ぃ」
 「袖口がじゃらじゃらして煩いんだよ。窮屈だし」
 淡々と紡ぎつつ、雲雀は言葉通り、若干きつそうに肩の辺りの布をつまみ上げた。

 身長はほとんど変わらないというのに、
 互いの間に存する、然程大きくはない、でも決して小さくもない体重の差が成せる業なのか、
 確かにその服は、特に腕周りが雲雀には細身すぎる気がしたし、
 実際、昨夜、橙の電灯の光を受けて淡く闇に浮かび上がるシーツへ、俺の手首を縫い付けたこいつの手は、思っていたよりもずっとしっかりしていた、なんて、

 そんなことを、ふと、思い出してしまって、
 かぁっと脳の髄が熱くなり、

 弾かれたように視線を欄干の向こう側へ投げる、と、

 蝋燭は、蝋が尽きる一瞬前に、
 ゆらり、と一際鮮烈に、その炎を揺らめかせるというけれど、もしかしたら、
 雪の結晶も、溶ける寸前に、最も強く輝くんじゃないかと思わせるくらい、
 雪に濡れた世界は、やっぱり、
 火消壺いっぱいの金剛石の屑を撒き散らしたって敵いそうもないくらい、綺麗で、

 ちょっと、泣きたくなる。

 昨夜、初めて他人と肌を重ねた。しかも、
 雲雀恭弥と。

 芸術においては美化され、生物学の領域ではその神秘性を称えられ、宗教的にはあまり快く受け入れられないその行為は、結局、

 天国が見れるような代物でも、人生の真理に近付けるような物でも、ましてや、
 理性を崩壊させる禁断の果実の味がするようなものでもなく、ただ、

 遺伝子に操られ、脳は、それなりの愉悦を受け取ってはいたけれど、でも、
 所詮は、その程度で、しかし、

 天井を負った雲雀の、どことなく猛禽類のそれに似た瞳が、俺の髪のパールグレイをぼんやりと映す様とか、
 肌を擽る、火傷しそうなほど熱を帯びた吐息とか、
 渇きを抑えようとするかのように時折上下する首筋に貼り付いた黒髪とか、

 そういった、取るに足らないものが、恐ろしいほど胸に詰まって、更に、

 悦楽を追って俺をかき抱く雲雀の所作は、
 求められているような錯覚を、俺にもたらしてくれるものだったから、なんだか、

 莫迦らしくなってくるくらい、皮膚の下が、さらさらとした温かいもので満たされて、それは、つまり、
 言いかえれば、しあわせだった、

 そう、少なくとも、
 世界が、今まで見たことがないくらい、綺麗に見えてしまうくらいには。


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