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□エディプス的偶像礼讃+α
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 「…ちょっと、ちょっと待てって」
 思わず、獄寺は口を開いた。
 開かざる、を得なかった。

 背後で、赤銅色の髪の少女、ハルが驚いたように眼を丸くし、
 どうしました?と言わんばかりに首を傾げるのが、傍らの姿見越しに視認出来たが、
 構う余裕なんて、ない。

 恥とか外聞とかもうどうでも良い心地になって、と言うか、
 そもそも、この、鮮烈な紅色を見せる布に腕を通した瞬間から、恥も外聞もへったくれも無いといえばそうなのだが、とにかく、
 微かに残っていた矜持もかなぐり捨てて、地に膝をつく。
 そのくらい、息苦しさが酷かった。

 「はひ、どうしたんです、獄寺さん?」
 若草色の畳を、きゅ、と鳴らしながら、獄寺の正面へと回り込み、小首を傾げて緩く瞬くハルの双眸には、案ずるような光が浮かんではいるのだが、
 獄寺はそこに、そこはかとない邪気が隠されているような気がしてならず、意図した訳でもないのに頬が、ひくり、と引き攣った。
 「てめぇは、俺を窒息させる気か!?」
 胃の辺りをきつく圧迫する硬い布を抑えつつ、恨みがましく口を開く。と、ハルは、
 何だそんなことですか、とばかりに小さく息を吐き出し、再び獄寺の後ろへと戻ると、
 彼の薄い胴回りに絡み付く銀糸の帯を、ぎゅ、と締め上げた。
 「窒息だなんて大袈裟ですよ、これくらいで窒息するんだったら、着物を毎日来ていた江戸の女の人たちはどうなっちゃうんですか?ほら、いきますよ」

 せぇのっ、だなんて掛け声までつけて至極楽しそうに腹部を圧迫してくるハルに、獄寺は、
 この、雲雀の家に仕える女中の恨みを買うような真似を、自分は何かしてしまったんじゃないか、と真剣に頭を捻りたくなってくる。

 「とにかく、一回待て!」
 帯と躰の間に指を差し入れてせめてもの抵抗を試みつつ、喉から声音を絞り出した、ら、
 息苦しさを堪えながら声帯を震わせた為に、妙な発声の仕方をしてしまったらしく、小さく咽る羽目になり、
 思わず背を丸めて咳き込むと、呆れたようなハルの声音が上から降ってきた。
 「情けないですよ、獄寺さん。女の子は綺麗の為に我慢してるんですから」

 俺は女じゃねぇ、とか、お前楽しんでるだろ、とか、
 言ってやりたいことは沢山あるが、余計なことを発して貴重な酸素を消費するのは賢くないと自分に言い聞かせ、とりあえず、
 呼吸を確保するという目下の課題を果たす為に、非常に癪ではあるが、おもねるように声音を和らげる。
 「分かった、我慢するから、一回、外の空気吸わせろ」

 「…もう、しょうがないですねぇ」
 ハルは軽く唇を尖らせながらも帯から手を離した。
 少し休んだら再開ですからね、と念を押すように人差し指を真っ直ぐにこちらへと突き付けてくる彼女に適当に相槌を返して、
 獄寺は飛び付くように中庭に面した障子を引き開き、続けて、
 盛夏特有の鋭利な陽光を湛える硝子戸に手をかける。が、
 刹那、

 ふと、視界の端に入りこんできた漆黒に、
 その所作は、半ば反射的に、硬直した。

 ちりり、と背筋に走る嫌な痺れ。
 本当は、一刻も早く硝子戸を開けて、新鮮な酸素を取り込みたいところなのだが、また実際、
 何にも構わず取り敢えず今は酸素を取り込むことだけを考えろ、と命ずる声音も確かに脳の髄を震わせてはいるのだが、

 やはり、視界の端の端で閃いた漆黒を知覚してしまった以上、その正体を確認しないわけにはいかず、
 獄寺は、気が進まないながらも、ぎしり、と油の切れたブリキ人形さながらな所作で、視線を動かし、

 小さな雀が羽根を休める縁台、の先の、
 湿気と熱気を纏った風が気まぐれに大気を揺らす度に爽涼な光の欠片を振りまく池、の傍らの、
 鮮烈な陽光を弾く白砂利が眩しい小道へと、視界を、向けて、

 思わず、天を仰ぎたくなった。だって、そこには、やはり、

 遠目からも水気を帯びていることが察せられるワイシャツの袖を二の腕の辺りまで捲り上げたリーゼント姿の青年の横に、
 温度を感じないのかと疑いたくなるくらい、漆黒の細身のスーツを乱れなく身に纏う、男が、一人。

 げ、と獄寺の喉が思わず鳴ったのと、
 その男の、陽光を吸い込んでも尚、熱を持たない漆黒の瞳が獄寺の方へ向いたのと、どちらが早かったかは分からない。けれど、とにかく、

 獄寺は、どことなく猛禽類を思わせるその男の鋭く吊った切れ長の瞳を視認した瞬間、持ち得る全ての反射神経を使って障子を閉ざすべく腕を持ち上げた、のだが、それは、
 あ、と喜色を含んだ声音を上げたハルによって妨げられた。
 「あ、雲雀さん、お疲れ様です!」

 獄寺が閉めようとしていた障子に手を掛けただけでなく、硝子戸まで邪気無く開け放ったハルに、雲雀、と呼ばれたその黒衣の青年は、
 小道に沿って緩く進めていた歩をふと止めると、獄寺らのいる座敷の縁台の方を振り仰ぎ、
 天道の眩しさをこらえるように、ほんの少し、眼を細めてから、
 決して大きくはない、しかし凛と良く通る声音を短く紡ぐ。
 「終わった?」

 「あ、はい、今」
 ハルは、高い位置で一つに結った髪をしなやかに揺らしながら、しゃん、と背を伸ばし、
 獄寺の肩を掴んでその躰を引っ張り上げるように直立させる。
 咄嗟に、獄寺は文句を紡ぐべく口を開いたのだが、間髪容れずに襲ってきた立ち眩みに空足を踏み、

 その隙をつくようにハルは、帯を再びきつく締め上げ、手際良く獄寺の背後でその銀糸の布を右へ左へと、獄寺にはてんで分からないやり方で捻って、
 大輪の向日葵を思わせる形に結い上げてみせた。

 次いで、細いのだけれど妙な力強さを持つその白い手で半ば強引に獄寺の躰を反転させてその面(おもて)を己の方へ向けさせると、
 自身の肩に掛けていた翡翠色の帯留めを彼の細い胴に回して止め、更に、
 仕上げとばかりに、紅い石楠花を象った髪飾りを衣嚢から取り出して、獄寺のパールグレイの髪に飾る。
 「はいっ、完成です!」
 獄寺の華奢な体躯にざっと視線を巡らせてハルは満足げに唇の端を持ち上げ、
 傍らに立て掛けてあった姿見を獄寺の前へ、ずいっと突き付けた。

 獄寺は咄嗟に、眼前で煌めいた鏡の滑らかな銀色と、そこに映っているであろう不本意すぎる今の己の容貌から、目を背ける。が、
 貌を逸らした方向が悪かったらしい、姿見から逃がしたはずの視界に、鏡台の三面鏡が飛び込んできて、
 結局、現実を突き付けられる羽目になった。

 三面鏡の、木目が美しい木枠の向こうで、涼しげな灰緑色の光彩を頂く目元を嫌そうに歪めている人影が纏っているのは、目が痛いほどに鮮烈な、真紅の振袖。
 しかも、なかなか歌舞いた代物だ。紅蓮の地に金糸の蝶々たちが舞い、目眩がする程きらびやかな羽を各々気儘に広げるそれらを大輪の睡蓮が彩っている。
 肩口から袖口にかけて漂う橙色の群雲、襟元から覗く鮮やかな金色の半襟。更に、
 紅の中で一際強く色を放ち、その肢体の輪郭の繊細さを際立たせている銀の帯には、優雅な風の軌跡を思わせる薄桃色の紋様が刻まれていた。
 翡翠色の帯留めは、それを纏う者の、日本人にはあり得ない緑の瞳の為に用意されたものであろうが、それは、
 その者のパールグレイの髪にも良く映えていて、清涼であえかな香を添えている。

 陽光に晒されたことが無いんじゃないかと危惧したくなるほどに透き通ったその肌の白に彩られる唇も、濡れた光華と共に朱色に仄かに色付き、更に、
 当人の揺れる心情を映してか、どことなく震えるように薄く開いている所為で、
 そこはかとない儚ささえ感じさせられるのだが、
 それとは酷く対照的な印象を、見る者に与えるのが、その瞳だ。

 幽玄な色を持つ硝子玉のような虹彩を戴く瞳は、猫のような気儘なアーモンド型を描いていて、その凛然とした勝ち気な様(さま)が挑発的な艶然さを醸す。
 眦(まなじり)にほんのりと引かれた朱がまた情欲的で、歌舞いたその振袖の紅と相俟って、そして、
 その襟元から覗く生白い肌に、惜しげも無く色を落とす、焔のような石楠花の真紅の花弁の刺青と相俟って、
 途方も無く扇情的で、実際、

 ハルも、顎に手を置いて満足げに何度も頷きながら、
 百点満点の出来です、と眼を細めていたが、

 獄寺は、意図とは関係なく自分の口の端が嫌な感じに引き攣るのを止められなかった。だって、
 どう楽観的に眺めてみようとしても、ハルと同じ感想を持つことなど、到底不可能だし、
 世界のほとんど全ての人間も、ハルと同じ感想は持ち得ないだろうと無条件に確信していた。
 「…いや、これは、悲惨すぎるだろ」
 「そう?」
 思わず、ぽつり、と唇からこぼれていった独り言に、思いの外至近から返答が返ってきて、獄寺は大きく肩を跳ね上げてしまう。
 弾かれたように振り返れば、いつの間に座敷に上がってきていたのか、先程まで炎天の真下にいたとは思えぬほどに涼しい貌をした雲雀が、獄寺の背後から彼の肩越しに三面鏡を覗き込んでいた。
 「問題無いんじゃない」
 ほとんど感情を表さない淡々とした声音でしれっと紡ぐ彼を、横目でじとりと睨んでやりながら獄寺はうんざりと返す。
 「いや、問題大有りだろ」

 そう?と雲雀はさして気に留めた風もなく軽く相槌を繰り返し、
 座敷に上がることはせずに縁台の傍らで音も無く佇んでいる草壁へ視線を流した。
 「問題あると思うかい?」

 獄寺も雲雀の視線の先を追って、そして、ほんの少し期待を込めて、草壁を見やる。それは、
 世間の常識なんてお構いなしの破天荒な雲雀とは違い、世間一般の良識を兼ね備えた草壁ならば、この三文喜劇の道化さながらの悲惨さを正しく理解してくれるだろう、と思っていたからでもあったし、
 草壁ならば、この計画を思い止まるよう雲雀に忠言してくれるだろう、と信じて疑っていなかったから、なのだが、

 唐突に話を振られた喫驚を軽く瞬くことで鎮めた草壁は、いとも簡単に獄寺の期待を裏切ってみせた。
 「そうですね、問題無いんじゃないでしょうか」
 「いや、問題大有りだろ」
 ほとんど反射的に獄寺は、つい先程、雲雀に向けて放った言葉をもう一度繰り返す。
 けれど、最後の頼みの綱だったと言っても過言ではない草壁に引導を渡されたような状況に、声音は必然的に弱々しく掠れてしまい、そして、
 切り返す語調から一瞬でも力が抜けてしまった以上、それは敗北と同義だった。

 雲雀は酷く不遜で不敵な微笑をその唇に刻んで獄寺を眺めながら、
 言葉だけを草壁に向ける。
 「今何時?」
 「約束の会合まで、あと三十分ほどです」
 ちらり、と腕時計に視線を落とし、草壁は雲雀が欲しているであろう情報を的確に口にした。
 「先方のキャバッローネ・ファミリーは、もう既にこちらが指定したホテルに入ったとのことです」


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