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□星時雨狂想歌
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 気が付いたら、知らない場所にいた。

 等間隔に設けられたくすんだ白色の街灯によって、ぼんやりと夜陰の漆黒から浮かび上がる世界には、
 無限に単細胞分裂して増殖したんじゃないかってくらい似たような形の家が、不気味なほど無機質に、かつ秩序だって、見渡す限り延々と並んでいる。
 ほとんど無意識に、ぎゅっと衣嚢(ポケット)の中で右の手を握り締めてみたら、
 夜気に冷やされた銀色の指輪の凍るような温度が骨に沁みて、ふるり、と背筋が震えた。

 迷ったな、と思う。
 明らかに、迷った。

 右を見て、左を見て、それでも、
 視界に移るのは、新興住宅街特有の個性が埋没した家並みで、一軒一軒の家の差異なんてほとんど見つけられなくて、しかも、

 家々の窓にぼんやりと暖かな光は宿っているのだけれど、核家族ばかりで一軒あたりの居住者が少ない所為か、はたまた壁の防音がしっかりしている所為なのか、人の存在を感じられる物音や声音がほとんど聞こえてこないから、そこはかとなく不気味で、なんとなく、

 合わせ鏡の世界にでも迷い込んだような心地になって、ともすれば、
 平衡感覚を見失い、くらり、と眩んでしまいそうだった。

 否、
 眩んだ感覚があるのはなにも、人を脅かすように左右前後に聳える同形の家々に平衡感覚を見失わされたからってだけじゃないだろう。きっと、
 つい先ほどまで、首を限界まで反らして空を仰ぎながら歩いていたことも、その誘因の一つだ。そして、
 そんな妙な歩き方をしていたからこそ、こんな風に、見知らぬ新興住宅街の奥深くへ迷い込んでしまう羽目になったのだ。

 これ以上先へ進んで更に方向感覚を失うことが怖く、足を止めたら、
 親に見捨てられて途方に暮れる幼子のような、灯台の光を見失って死を意識する船乗りのような、もしくは、羅針盤を失って縹渺たる砂漠の只中で呆然と立ち尽くす旅人のような、そんな心地になって、
 どうしようもなく、虚しくなった。

 衣嚢の中の箱から煙草を抜き出し、
 寒さで、じんわり、と痺れる指に何とか力を入れて、ライターの回転ドラムを回し火を移す。

 煙草のフィルターに軽く歯を立てて、ゆっくりと肺を膨らませ、次いで、
 ふぅっと溜息でもこぼすように息を吐き出したら、
 意図したわけではないけれど、口の端は自嘲的な弧を描いていた。
 願いを託することで、人生行路の行く末を細やかな希望の光で照らしてくれる流星を探して、現実世界の帰途を見失ってるんじゃ世話ねぇな、と、
 心底ばかばかしくなる。そもそも、

 俺は、運が悪いのか何なのか、流れ星って奴を生まれてこのかた見られた試しが無くて、
 今まで、何度も期待して天を仰いでは、視界の中で一向に流れてくれない銀色の星々にがっかりさせられ、その度に、

 流れ星が何だっていうんだ、そんなの見られたからって腹が膨れるわけでなし、って、
 流星に願い事を託したって、どうせ叶うはずねぇんだ、って、

 流れ星を探すことの無価値性に気付かされてきたはずなんだ。それなのに、

 補習の宿題にお励みになられていた十代目にお暇(いとま)を頂いて、夜陰に冷やされアスファルトを野球バカと並んで踏んでいた時、
 たまたま、前を歩いていた女生徒が、携帯電話を耳元に当てながら空を仰いで、
 そっかぁ今日は双子座流星群が見れるんだぁ、なんて、
 受話口の向こう側にいる人物に向けて笑っていたのが、妙に耳に残って、結局、

 天を見上げて、希望でも求めるかのように流星を探すのを、止められなかった。

 ばっかみてぇ、と、
 喉をそっと震わせて、声音を硬質な夜気に溶け込ませる。
 寒さの所為か、それとも煙草の煙の所為かは分からないけれど、白く色づいた吐息は、
 まるで珈琲に落としたミルクのように、闇にゆるりと漂い消えていった。

 それが、なんだか無性に侘しく見えて、
 空からも、音もなく生滅する紫煙からも、目を背けるようにアスファルトを見つめる。

 暢気に星なんか眺めてる暇があるなら、早く帰って少しでも十代目のお役に立てるよう修練なり何なりしていた方がよっぽど有意義だ、と口内で呟いた言葉は、
 強がりでは、本当に、なかったのだけれど、
 自分の中の何かを吹っ切るような響きが練りこまれてしまうのを止めることは出来なかった。でも、

 それには気が付かないふりをして、
 取り敢えず、今来た道を戻るのが、正しい帰途を見つける一番の得策だろうと踏み踵を返す。が、
 刹那、上方で唐突に閃いた人の気配に、脚は一歩も刻まぬうちにまた止まる羽目となった。

 肌を切るような冷たい夜気特有の静寂を打ち砕く、喜色を纏った甲高い、恐らくは子供の、くぐもった声音。そしてそれに次いで鳴る、からり、と硝子戸がサッシを滑る軽い音。

 ほとんど無意識に音の方を見上げれば、
 右方の二軒ほど先の住宅で、二階の硝子戸が開けられ、ベランダに大小二つの影が出てくるところだった。

 ねぇ、お父さん、と、
 先程よりも鮮明に、幼子特有の音調が不安的な声音が鳴る。
 星、流れてないじゃん、と。

 全部の星が一斉に流れるわけじゃないんだからじっと見詰めていないと流れ星は探せないよ、と応える父親らしき男の声音は、
 呆れた風を装っているその口調と裏腹に、酷く優しい。

 ふぅん、と少しつまらなそうな相槌を打った子供と、そんな彼の様(さま)が可笑しかったのか軽い笑い声を漏らした父親の姿は、
 彼らの背後に灯る、暖かすぎる橙色の部屋の明かりの所為で逆光に塗り潰されていて、黒い影にしか見えない。それでも、
 ベランダの欄干に身を乗り出す子供の腹を、父親が優しく押さえているのは、何故か不思議とはっきり見えた。

 だから何だと言われたらそれまでなのだけれど、なんとなく、
 その父親の優しげな手から、視線が離せなくなって、
 脚が、凍り付きでもしたかのように急に重くなるのを自覚した、瞬間、

 あ、とも、え、ともつかない母音を子供が叫んだ。

 見た?ねぇ見た?と続けられた子供の高揚に上擦った声音を聞かなくたって、
 見たよ凄かったねぇ、と子供に応える父親の声音を聞かなくたって、
 何が起こったかなんて、簡単に察せた。

 星が、彼らの前で、流れたのだ。

 弾かれたように俺も夜空を見上げてみたけれど、そこにはもう流星の銀色の残滓さえ残っていなくて、
 漆黒の画用紙に撒き散らした屑ダイヤのような星々は、相も変わらず先程と寸分変わらぬ位置で、ちらちらと瞬いているだけで、
 心底馬鹿らしくなった。

 平然と閃く針のように鋭利な煌めきは俺を嘲笑っているようだ、なんて、そんな被害妄想だってしてみたくもなる。だって、
 こんなにも簡単に、俺の視界の届かないところで星は流れるんだ。

 帰ろう、と思う。
 今すぐに視線を天から下ろし、煙草をアスファルトに落として踵で潰して、
 冷えすぎた手を衣嚢に突っ込んで、見失った帰路をなんとか探して帰ろう、と。でも、
 視線を、手を、そして脚を、動かすにはあまりに躰が重すぎて、それに、

 帰ったからといって何だ、という言葉が、呪詛のように心の臓に、絡みついてきて、
 身動きが、とれない。

 そうだ、帰ったからといって、何なんだ。
 帰りを待っていてくれる人がいるわけじゃない、あの部屋に、
 漆黒の闇と冷えたフローリングのみが待つあの部屋に、
 帰る必要性なんて、これっぽちもありはしない。

 どうせ、くらくて、さむくて、ひとりなら、
 今のこの状況と、大して変わりはないじゃないか。なんて、

 笑っちゃうくらい時代遅れのペシミズム。けれど、

 陳腐と笑い飛ばしてしまうおうと唇に描いた弧は、情けないくらいに歪んでしまい、頬も硬く強張ったままで、
 なんだか無性にやるせないから、乾いたアスファルトに煙草を落とす。でも、
 それを踏み潰す気力は、どう頑張ってもかき集められそうになかったから、地の上で燻る(くすぶる)それを見るともなく眺めてみることにした。

 夜陰の黒色とアスファルトの冴えない墨色を、ぼぅっと浮かび上がらせる煙草の先の朱色の火は、
 人間には知覚出来ない仄かな風に弄ばれてでもいるのか、鮮烈に輝いたり、かと思えば一転して今にも消えそうなくらいその光を弱めたりを繰り返している。
 その明滅は、どことなく星の瞬きに似ているような気がして、

 仲間外れになった星みたいだな、なんて口内で呟いてしまったら、もうだめだった。
 暗さと、寒さと、ひとりぽっちの静けさが、おもくおもく、のしかってきて、
 はいが、いたむ。いきが、すえない。

 酸素でも探すように、右の手で衣嚢をまさぐり、
 縋るように、携帯電話を握り締めてみるけれど、
 その無機物はあまりに冷たくて、骨がじんと痺れただけで、
 途方もなく、泣きたくなった。


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