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□あの世とこの世とその狭間
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 元は鮮烈な紅色だったろうに今やすっかりと色褪せ、ふやけたアムレットみたいな色を見せるテーブルは、四つの脚のどれかが欠けているのか、軽く手を載せただけなのに、がた、と大袈裟な悲鳴を上げる。
 そのテーブルの片隅では、湿気による黒ずんだ染みが所々浮き上がる割り箸が、これまた色褪せた、かつてはちょっと小洒落た小花模様でもあったのであろう円柱形の割り箸立て一杯に、無造作に突っ込まれているのだけれど、
 ここ十数年、そこから割り箸を抜き出した者はおろか、それに触れた者すらいないんじゃないかって具合に、それらはうっすらと埃かぶっていて、
 その埃が、テーブルが揺らされる度に舞うのだから、たまらない。
 おまけに、割り箸から舞い上がった埃の行く先を負って視線を天井へと向けてみれば、
 傘の縁が欠けた蛍光灯とか、うわんうわんとやけに煩く唸る空調の吹出口とか、
 壁際の背の高い棚の上でぽつんとうずくまり、誰も見てなんかいないのにその画面に何かのバラエティ番組を延々と写し続けているテレビとかにも、埃が厚く降り積もっていて、
 なんだか見ているだけで喉がいがいがしてきそうだ。

 眼前には、この寂れた食堂の主であろう腰の曲がった老婆が先程置いていってくれた水のグラスがあるが、それも、
 元は透明であったはずなのに黄ばみ、指紋だか皮脂だかは知らないが所々白く曇っているグラスの面(おもて)が目に入ってしまうから、手を伸ばす気がどうしても湧いてこない。

 手慰みに、右の人差し指にはめた髑髏のデザインの指輪を抜いたり、指の根元へ押し込んだりしていたら、
 席についてから一向に料理を注文する気配の無い俺らに気を使ったのか、油で茶色く汚れたカウンター席の向こうの厨房から、老婆がちょこんと貌を出し、
 冷やし中華は今は出来ないけどそれ以外ならメニュー通り作れるからね、と声音をかけてくる。

 何か頼めよ、と俺は壊れかけたテーブルの対面に座す雲雀を見やるが、雲雀は素知らぬ貌で傍らの窓の外へ視線を投げたまま、こちらを向く気配がない。
 別に、今雲雀の目に何が映っているのか気になったから、ってわけじゃあないけれど、なんとなくつられるように俺もそちらへ視線を向けてみたら、
 埃と油で汚れた窓硝子越しの世界は酷くくすんでいて、曇天の空はより陰鬱に、オフシーズンの海水浴場特有の閑散とした砂浜はより物寂しげに、そして、その先の太平洋のどこまでも黒に近い濃紺色の深いうねりはより重々しく、見えて、
 それらはお世辞にも見ていて癒される景色では決してなく、正直に言えば、酷く気を滅入らせるような光景だった、けど、
 今の心地には、晴天の蒼よりもこちらの方がお似合いであるから、不快ではなかった。

 汚い店でごめんなさいねぇ、と老婆がカウンター席の向こうからまた話しかけてくる。
 狭く色褪せた店内の窓側の席に、ぽつん、と座る唯一の客である俺らが、先程からメニューを見るでも出された水のグラスに手をつけるでもなく、ただただ無言でいるものだから、老婆も気まずいのだろう。冷やし中華以外なら大丈夫よ、と先程も聞いた言葉が繰り返される。

 仕方なく、どことなくべとついたメニューを開くことにした。
 その俺の所作を見た老婆が嬉しそうに薄汚れた布巾で手を拭きながらカウンターを回ってこちらの席へと歩み寄ってきたから、ゆっくりとした歩調の老婆が脇へ来るまで待って、メニューの片隅の、クリームソーダ、という文字を、じゃあこれ、と指差す。
 それを選んだことに大した意味はない。ただたまたま目に止まったというだけ。クリームソーダという名前に妙に古くさい懐かしさを覚えたものの、あまりにも古くさく懐かしすぎて、あれクリームソーダって何だっけ、と上手く思い出せなかったから選んでみただけ。

 ああぁ、と老婆は曲がった腰を億劫そうに少し伸ばし、心底残念そうに喉を鳴らした。悪いわねぇ、今さくらんぼ切らしてるのよ。

 冷やし中華以外なら何でも大丈夫じゃなかったのかよ。そう思うけれど別に、クリームソーダにもさくらんぼにも大した執着は無いから、声音には出さない。
 そう、別に執着は、ないんだ。だって、そもそも、
 この店に入ろうと俺が言い出したのだって、お腹が減ったからでも喉が渇いたからでも疲れたからでもなくて、ただ単に、
 帰りたくなかったから、で、
 帰ろう、って言い出すのも言い出されるのも、怖かっただけ。
 帰ろうか、って言葉は、遅かれ早かれ絶対に発せられるであろうものだし、発せられなければならないものなのだけれど、
 その言葉が互いの間に落ちる瞬間を、一分一秒でも先伸ばしにしようと、無益な延命処置を施すみたいに、この店に入ってみただけ、本当にただそれだけ、なんだ。だから、

 さくらんぼ無くても別に構いません、って意を込め、老婆を見上げて軽く頷いてみせる。
 老婆は心底申し訳なさそうに、本当ごめんなさいね、と繰り返してから、相も変わらず窓の外を眺めている雲雀に目を向けた。きっと、そちらのお客さんは何に致しますか、ってことなんだろう。けど、
 雲雀は、その視線を感じているだろうに、一向にこちらへ振り向く気配もメニューを開く素振りも見せない。

 おい、と雲雀に呼び掛ける。久し振りに声帯を動かした所為か、自分の唇からこぼれ落ちた声音は酷く掠れていて、なんだか滑稽だ。
 何か頼まねぇの、と言葉を重ねると、ようやく雲雀はこちらへその漆黒の瞳孔を向けたが、
 それは本当に一瞬だけで、またすぐに瞳を鈍色の天へと戻してしまう。仕方なく、

 こいつはいらねぇみたいです、とそう老婆に言ったら、老婆は少し残念げに皺だらけの頬を歪めるようにして笑った。
 それから、ちらっとテーブルの片隅に置かれた二つのバイク用ヘルメットを見て、いいわねぇ、と声音をこぼす。いいわねぇ、お友達同士で旅行?
 まぁ、と曖昧に微笑んでおく。

 天気が良ければ良かったんだけど生憎ねぇ、と、
 そう呟くように言葉を綴った老婆が、やっぱり酷くしんどそうに背を伸ばして窓の向こうへ視線を投げたから、どきりとする。弾かれたように俺も背を伸ばしてしまったのは、
 "友達"であるなら二台止まっていなければ不自然であろうバイクが、一台しか店先に止まっていないことに、気付かれるんじゃないかと危惧したからで、
 でもすぐに、駐車場はこの窓からは見えない位置、つまりこの店の裏手側、にあったことを思い出して、こっそりと肩から力を抜いた。

 今は閑散としてるけど海開きの時はそこの砂浜は沢山の人で賑わうのよ、と老婆は古い記憶を懐かしむみたいに皺だらけの目を柔らかく細め、
 その時期ならば冷やし中華もお出し出来るんだけどねぇ、と惜しそうに溜め息をつく。
 そんなに冷やし中華がおすすめなんだろうか。
 所詮は時代に取り残されたかのように、ぽつん、とさびしく佇む廃れきった食堂が出す冷やし中華だ、その味なんてたかが知れているのに、そんなに残念そうに繰り返し言われると、なんだか、
 冷やし中華食べてみたかったな、っていう心地になるから人間って不思議だ。

 けれど、
 じゃあ海開きの時にもう一回来てみるか、とはならない。
 否、"なれない"。

 そんなことを考えていたら、ほとんど無意識に、瞳を伏せていた。
 きっと、酷い貌をしてしまっているんだろう、雲雀が視線こそ窓の外へ向けたままだが、意識だけ、ちらり、とこちらへ向けたのが分かった。
 でも、奴は何も言わない。
 俺も、何も言わない。

 今クリームソーダ出すから待っててね、と老婆が思い出したように微笑んで厨房の方へと踵を返す。
 足を引き摺るように歩む老婆の靴音が遠ざかると、しん、とした沈黙に耳を打たれた。
 こんなに静かだったろうか、とふと模糊とした違和感を覚えて何気無く視線を上げたら、いつの間にか、
 棚の上の随分と古そうな形のテレビの中では、騒がしい朗笑を奏でていたバラエティ番組が終わり、代わりに、茶色の長い髪の女が天気予報図の前で嘘くさい笑みを浮かべていた。
 明日は午後から全国的に晴れて暖かくなるでしょう、と女は言う。
 本当かよ、と思わず口内で呟いてしまったのは、最近の天気予報は何故か知らないけど外れ通しで、今日だって昨日の天気予報では、快晴でしょう、なんて言われていたから。
 でも、今日のこの女の天気予報が当るかどうか見極めることは、俺には出来ない。何故って、
 明日の今頃は、俺はもうここにいないから。

 明日の朝一番の飛行機で、俺はイタリアに発つ。

 今までもダイナマイトを仕入れたりするために何度かイタリアへは行っているから、日本を離れることはそんなに珍しいことでも特別なことでもないのだけれど、
 今回は、日本に戻ってくる予定が今のところ無い、という点で特別だ。
 だから、どんなに気になったとしても、海開きの時期にこの店に冷やし中華を食べに来ることも出来やしない。


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