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□Drown in the Sky
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 空に溺れた。そんな感覚だった。

 五月の空は、手が届かないと諦めるには近すぎる、でも手が届くんじゃないかと期待するには遠すぎる位置にあって、
 その、どこまでも透き通った薄い青は、浅瀬の水底から仰いだ水面の色に良く似ていた。
 ふわり、と時折気紛れに吹く風は、新緑の仄かに青い香りと、肺をほっと柔らかくほぐれさせる生暖かい香りを纏っているが、その温度はやはりまだ肌には冷たくて、
 こぽこぽ、と地の底から湧き出ては気ままに渦巻きたゆたっていく水流のように頬にひんやりと触れては過ぎていく。
 大地に触れていない両の脚は自身の体重を支える役目から解放されて、ゆらゆら、と力無く揺れていて、平衡感覚をともすれば見失ってしまいそうなくらいの浮遊感が全身を圧迫していた。
 呼吸も、苦しい。肺が思うように酸素を取り込んでくれない。その感覚も、溺れた時のものにとても良く似通っていたけれど、今息苦しいのは別に溺れているからじゃなくて、
 自分の全体重を腕一本で支えているために、重力で圧迫されて上手く肺が膨らんでくれないから。

 今、俺の身体は、比喩でもなんでもなく、宙に投げ出されていて、
 雲雀のたった一本の腕によって、落下を免れている。

 ひゅぅ、と一際甲高い声音を奏でて一陣の風が足元のグラウンドの縁に植えられた樹々の枝を揺らし、校舎のコンクリート駆け上がって屋上にまでやって来る。
 それは、大地に両足がついている状態だったらなんてこともないただの微風だったのだろうけれど、宙に投げ出された身体には心臓がぎゅっと締め付けられるくらいの衝撃で、
 ほとんど反射的に右の手に絡みついた雲雀の指を強く握り締めれば、それに応えるように雲雀の指にも力が入った。
 やけに乾いた喉を上下させて視線を上げれば、蒼穹を背後に負い、屋上の縁のアスファルトに片脚を掛けてこちらへ手を差し伸ばす雲雀が微かに笑う。例えば傍からこの光景を見た者がいたとしたら、雲雀のその微笑を、奇跡的に落下を免れてはいるけれどいつ支えを失って大地へ吸い込まれていくか分からない状態の俺を安心させるためのもの、と解釈するかもしれないけれど、とんでもない。そんな甘い優しい笑みなんかじゃないのだ、奴の笑みは。何故って、
 俺を突き落したのは、他でもない、雲雀恭弥なんだから。

 本当は、衣嚢から手に馴染んだダイナマイトを盛大に取り出して、奴に投げつけてやりたい。でも、出来ない。浅ましい生存本能が、俺を雲雀の手に縋り付かせる。
 それでも、このまま情けなく縋り付いているだけなんて御免だから、せめてもと上目で強く雲雀を睨み上げ、貌をしかめながらもなんとか空気を肺に取り込んで声音を喉から絞り出す。
 「…なんの真似だ」
 雲雀は、悪びれもせず、質問の意味が分からないと言わんばかりに軽く首を傾げてみせると、
 肩に羽織った学ランの裾を生暖かい風に悠然となびかせながら、吊った切れ長の瞳を至極愉快げに細め、唇の隙間から犬歯をのぞかせた。
 「空を飛んでる、って言わないの」
 「言うか、莫迦」
 タイタニックじゃあるまいし。そう口内で毒づく。なにより、そんな呑気なことを感じていられる状況じゃない。確かに今の俺は、
 かの有名なアメリカ映画で、主人公に促され船の尖端で両手を広げたヒロインよりも、空を飛んでる、という言葉がぴったり当てはまる状況にあるだろう。脚の下に広がるのは、やけに小さく見えるグラウンドと、玩具みたいな桜並木で、肢体は空のどこまでも澄んだ蒼に包まれている。けれど、
 目眩がするくらい遠くにあるアスファルトの漆黒は、今の俺にとってはまさに奈落の色なのだ。躰中の血液は心臓の辺りに縮こまり、手はじっとりと嫌な汗で湿り、喉も唾液を嚥下するのが苦痛になるほどからからに乾きこそすれ、
 周りを呑気に見渡して、空を飛んでる、だなんて浪漫的な台詞が吐けるわけがない。
 するり、と雲雀の指の中で手首が滑り、躰がほんの数ミリ大地へ近付いただけで、ほら、
 肌はぞわっと粟立ち、ひゅ、と喉が鳴る。

 早く、と思わず口にしたら、その声音が思ってたよりもずっと懇願するような響きを纏ってしまっていたのが悔しくて、奥歯を噛み締めた。
 「早く引き上げろよ。肩外れんだろうが」
 「気にしなくて良いよ、たかだか君の体重を支えるくらいで外れる肩じゃないから」
 憎らしいくらいにしれっと雲雀は応える。まるで、今日は雨だけれどたまにはこういうもの良いよね、とでも言うような感じで。

-To Be Continued-


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