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□幻蝶天語歌
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―その前にぼくは、そっと食堂に行って、大きなとび色の厚紙の箱を取ってき、それを寝台の上に載せ、やみの中で開いた。そして蝶を一つ一つ取り出し、指でこなごなにおしつぶしてしまった。【エーミール】―
そういえばあの蝶はどうなったんだろう、と、
脳裏へ久方ぶりに蘇ってきた、あの蝶の羽の七宝焼みたいな色彩をどこか客観的に眺め、
ひんやりとした風が学ランの裾を揺らすのにも構わずただ立ち尽くしたまま、
ふと、思った。
どうして急にあんな古い記憶が掘り起こされたのかは知らない、だって、
街路灯の無機質な橙の光をぼんやりと煙(けぶ)らせる秋雨も、
どこか不気味な沈黙を纏った公園の夜陰も、
あの記憶の誘因となる事象にはなり得ない、何故って、
春だったか夏だったか、はたまた冬だったのかはもう忘れてしまったけれど、あの日、あの蝶の背景に広がっていた天穹は、
浅葱色の水彩絵の具を水に溶かして、ぶちまけたかのような澄んだ青色だったし、
あの蝶の銀を音もなく煌めかせていたのは、枝葉の隙間から射し込む穏やかな木洩れ日だったのだから。
強いていうならば、と、
しっとりと濡れた鞦韆(ぶらんこ)の傍らでふと止めてしまった脚をそのままに、斜め前方のベンチの陰で揺れる灰銀色を眺めて、
この一切の音が死んだかのような静寂が、あの日あの時あの蝶と僕を包み込んでいたものに似ているのかもしれない、なんて考えてみる。
あの家の中庭に面した渡り廊は、表の通りから離れている所為か喧騒が遠く、日中でも穏やかな沈黙に沈んでいて、
だから、あの渡り廊に設けられた窓から臨める四角い世界は、まるで絵画のように、それなりに美しく見えるし、
だから、僕は、あの日その絵画の中に囚われていたあの蝶を、こんなにも鮮やかに記憶しているんだろう。
綺麗な蝶だった。
大きく広げられた、紅や黄や橙に彩られる銀色の羽根は、
木洩れ日に透かされ、まるで七宝焼のように煌めいていて、
少しでも人間の無粋な指先が触れたら、地に落ちた硝子細工みたいに粉々に砕け散ってしまうんではないかと思わせるほど、途方もなく繊細だった。
ゆらり、ゆらり、と、
時折思い出したように揺れる羽根は、
果たして風に揺らされていただけなのか、それとも、現実味が感じられないくらい美麗な青を見せる空に舞い上がりたいという蝶の欲動を表したものなのか、
その答えは、あの時分よりは幾分賢くなったであろう今の思考で考えてみても相変わらず判然としない、けれど、
その蝶の力無い蠢動にさえあの時の僕は魅せられていたのだ。
蝶は、
松の枝と竹を繋いで見事な正六角形を見せる蜘蛛の巣に、囚われていた。
砂糖菓子のような羽根を戒める糸に、造り手である蜘蛛はいなくて、
それが、造り手にその巣が見棄てられたことを意味しているのか、それとも、造り手がただ単に留守にしていただけなのかは、蜘蛛の生態に別段興味の無い僕の与り知る(あずかりしる)ところではないけれど、とにかく、
澄んだ木洩れ日を鈍く反射するその美しい糸の舞台は蝶だけのもので、
鋭い牙で一息に命を断たれる訳でもなく、今の状況から救って貰える伝(つて)がある訳でもなく、
ただ気儘な風に翻弄されて羽を揺らしながら、緩やかに死を迎えることを運命付けられた蝶は、
酷く愚かしいのだけれど、何故か、
その愚かしさも美しいような気がして、だから、
ああ、そうだ、だから僕は、
外出するからと表へ呼ばれていたのも忘れてただただ立ち尽くし、その蝶を見詰め続けていたんだった、のだけれど、
あの蝶はあの後、結局どうなったのだろう、と、
漆黒の傘を叩く雨音を耳元で聞きながら、
ぼんやりと思う。
その問いは、あの蝶を見てからしばらくは、あの渡り廊を通ったり、庭で蝶を見掛けたりする度にぼんやりと思考に過っていたものだったけれど、
いつの間にか、すっかりと忘却の深淵に沈んで、
否、でも、
自分では今久方ぶりに思い出したような気でいるが、もしかしたら、
あの問いは意識の表面下にずっとずっと痼(しこり)のように存していたのかもしれない、だって、
最近でも、渡り廊を渡ったり蝶を見掛けたりする度に、何となく意識が引かれることがあって、
喉に刺さった魚の骨のように、真剣に対峙するには取るに足らないものすぎてくだらないが、放っておくには気持ち悪いような、そんな妙な感覚を覚えていたのだけれど、
今ならば分かる、それは、きっと、
あの蝶のことは既に忘れてしまっていたのに、蝶があの後どうなったのかというテーゼだけは、
忘却の波に器(うつわ)を溶解され、視認出来る輪郭を失って本質とも言うべき核のみになってしまってからも、まるで蜃気楼の如く生き続け、意識の隅にずっとわだかまっていたからなのだ。