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□無意味な儀式の喜劇性
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―「愛について肝心なことは」と彼は、自分の考えをすばやくまとめながら、言った。「愛という言葉を卑俗なものにしてしまったので、その言葉を嫌う点にある。愛という言葉は、われわれが新しい、よりよい観念を手に入れるまでは、何年ものあいだ、禁止し、口にするのをタブーにすべきです」【恋する女たち】―
世の中は、形骸化したもので溢れている。そう思う。
例えば、乾杯。
あれは、元々は宗教儀式の一つで、
乾杯と唱えてグラスを打ち合わせるのは、悪魔を払う為であったはずなのに、
昨今では、それは最早ただの掛け声に成り下がっているし、
本当は占いの道具の一つであったビー玉だって、
今や単なる子供の遊び道具だ、そして、つまり、
これも、そんな本来の意味が忘れ去られて形骸化した儀式の一つなんだろうな、と、
雲雀が持っている漆黒の布をぼんやり眺め、俺は、
視界の端にかかるパールグレイの髪を無造作にかき上げた。
応接室特有の重厚な窓を背に負い、俺が寝転がるソファの肘掛けへ、ぎしり、と膝をつきながら、
左右の手で細く長い漆黒の布の端をそれぞれ持ち、軽く両の腕を広げてみせた雲雀は、なんとなく、
フェルメールの絵の中のキリストを思わせるのだけれど、それは、
その腕の角度があのキリストのものと似ているからってだけではなくて、多分、
その漆黒の瞳に宿る、どこまでも迷いの無い凛然たる色が、かのメシアの穏やかに細められた目元に滲んでいたものと酷似しているからだろう、なんて、
自分で考えて、自分が莫迦らしくなる、だって、
キリスト様って柄(がら)かよ、こいつが?
力で全てを支配しようとする奴だ、
己の価値観を人に押し付け、群れている奴らは、そこに逆らう意図があろうと無かろうと関係無く咬み殺し、
自分は秩序を超越するくせに、人には従属を強要する、けど、
それなのに、と言うべきか、それとも、
だからこそ、と言うべきか、
こいつが時に残酷なくらい優しいのを、俺は知っている。
眼、瞑って、と雲雀が言う。
もう何度も繰り返された儀式だ、それこそ、
本来どういう意図を持っていたのか、忘れてしまうくらいに。
今更、こんな形骸化した儀式に意味なんてない、そう思う、のだけれど、
結局、言われるがままに瞼を下ろしてしまう俺は、
もう本当に救いようがないくらい、卑怯なのだろう。
より深く体重をかけてきた雲雀の躰を受け止め、ぎ、と軋んだ声音をあげるソファ。
雲雀の手の中で微かな衣擦れの音を奏でる黒い布。
ふわり、と柔らかく風を渦巻かせて床へと流れていったのは多分、雲雀が肩から払い落した学ランで、
斜陽に透かされ、瞼の血管の淡い朱色に染まっている視界が、ふ、と暗くなったのは、きっと、
雲雀の影が、落ちてきた所為。
とくん、と軽やかに跳ねる鼓動を無視して、そのままじっとしていれば、
少しだけひんやりとした滑らかな感覚が目元を擽り、そして、
俺の瞼を完全に塞ぐべくそれは、
その柔らかく滑らかな黒い布は、
きゅ、と後頭で固く結ばれた。
微かに響いた骨が軋むような音と、温もりが静かに遠ざかっていく気配に、
瞼と布の向こうで、儀式の義務を終えた雲雀が軽く上体を起こしたのを察し、
雲雀、と半ば無意識にその名を紡げば、その声音は酷く掠れてしまってほとんど音にならなかったけれど、
それに応えるように俺の頬を撫でた雲雀の手は、
既にこの瞳は盲いて(めしいて)いるというのに、念を入れるかの如く布の上から俺の瞼を覆い、そして、
感じる、
漆黒の闇の中、頬を舐める温かな吐息、次いで、
唇に触れる高い温度。
ひくん、と、
思わず痙攣でもするかのように肩を跳ね上げてしまったのは、
怖かったからでも、哀しかったからでもなくて、ただ単に、
肌に温もりが唐突に触れるこの瞬間になかなか慣れることが出来ないからで、でも、
雲雀はそんなことには構う風もみせず、焦らすようにゆっくりと濡れた熱でこちらの唇をなぞって、きて、
ぞくり、と背筋が粟立つ感覚に、身を小さく震わせつつも、
そこへ愉悦の鱗紛を見てしまう俺は、いつだって、
この無意味な儀式の舞台で踊らざるを得ない哀れなマリオネットを装った、虚栄の道化師だ、ああ、
歯列を割って口内へと入りこんでくる舌は、火傷しそうなくらいに熱い。
目眩。
目眩。
酩酊感。
高揚に背徳感の錯綜、
そして、やっぱり、目眩。
ふわり、と、
頬を掠める雲雀の髪は、こそばゆく、
至近で絡まる吐息に喉が鳴る、
ねっとりと口蓋をなぞられる疼きは、俺からなけなしの平衡感覚を奪う、から、
食道に落ちていく唾液に温度なんて無いはずなのに、喉が爛れるのではないかと思うくらいの灼熱を感じ、
皮膚の下の全てが、どろりとした液体と化してしまったかのような錯覚に溺れる。
「ん…、ぁ」
喉が震えて無意味な音をこぼせば、
眼の上に置かれた雲雀の指が、ひくり、と引き攣り、そして、
その指で、布に覆われたこちらの瞼をそっと撫でてくる。
その所作が、泣きたくなるくらい柔らかくて、非情なくらい優しくて、
思わず、雲雀の温度を、激情を、存在を、もっともっと感じてみたくなってしまって、
右の手を軽く持ち上げ、雲雀の頬を探す、が、
途端、目元から温もりが消え、代わりに、
宙を彷徨っていた右手に、骨張った指が、絡みついてきて、
ぱたり、と、俺の腕はソファの冷たい革の上へ押し付けられた。
そのまま、ぎりぎり、と握り締められれば、
鈍い痛みと共に手首の骨が嫌な感じに鳴るのだけれど、
心の臓にぽっかりと穴が開いたかのような虚無感を嚥下することに必死な俺には、鈍痛に向けてやる意識なんて欠片もなくて、ただ
雲雀の舌に、己のそれを絡め、毒々しい熱を共有しながら、
今こいつはどんな貌をしているんだろう、と無性に知りたくなった。
そっと瞼を上げてみる、でも、
布で覆われている視界に、雲雀が映る訳もなく、
それが俺の卑怯さへの代償だと知りつつも、途方もない虚しさに苛まれるなんて、
一体どこまで欲深いんだ、俺は。
あの日、が春だったのか夏だったのか、はたまた秋だったのかは忘れてしまったけれど、
とにかく、あの日、
全部僕の所為にすれば良いじゃない、と雲雀は笑った。
腐りかけの柿みたいなぐずぐずの紅い斜陽を背負い、逆光の影の中に表情を沈ませ、
長い指で己のネクタイを、するり、と外しながら、悠然と唇の端を持ち上げてみせたこいつは、
抵抗したのに敵わなくて君は無理矢理僕に抱かれるんだ、と、
呪文を唱えるようにそう紡ぎ、俺の眼を臙脂色のネクタイで覆って、
なんなら一発殴っておいてあげようか?と、
酷く物騒なその言葉とは裏腹に、舌を噛み切りたくなるくらい優しい所作で額に唇を落としたのだ。
他人の評価になんて興味がない、と雲雀は鼻で笑う、けど、
俺にとって、否、社会という没個性が求められる世界に生きる人間のほとんどにとってもそうだと思うけれど、
他人の評価っていうのは、結構重要で、
まぁ、語弊が無いように言うならば、俺の場合は、たった一人の他人の評価しか重要ではないのだけど、つまり、
俺は、十代目に嫌悪されたり見放されたりなんかしたら、比喩とか言葉の綾じゃなくて、本当に、生きていけなくなるかも知れなくて、
そんな、あまりにも臆病な俺は、雲雀に手を伸ばす資格なんて欠片も有してはいない、でも、
おおよそ奴らしくもない、残酷なほどの優しさを見せた雲雀は、
楽園でイヴを唆す(そそのかす)蛇のような狡猾さと、人の子の罪を贖うために十字架を負った
メシアの如き慈悲深さをもって、
君の罪は僕が全て引き受けてあげる、と、
どこまでも不遜に、限りなく冒涜的に、そして、途方もなく不敵に、
眼を、細めた、
だから、
この、俺の眼を闇に塗り潰す一片の布切れは、
雲雀の罪の証。
そのはずだった、
そのはず、だったのに、
最早この布切れは雲雀の罪の証にはなり得ないだろう、だって、俺は、
ああ、ほら、と、
ほとんど無意識に持ち上げていた左の手に、
自嘲気味の笑みを一つ。
ほら、こういう風に、俺は、
雲雀を求めてしまう、
犠牲者を装わなくちゃ意味ねぇのに、
漆黒に邪魔されて雲雀の姿を網膜に映せないことに茫洋たる虚しさを覚え、
その存在が近くにあることを感じたくて縋るように、腕を伸ばしてしまう。
これじゃあ明らかに共犯だ、そう思うのに、
彷徨わせた手の甲に当たった温もりを頼りに、
多分雲雀の首であろうそこへ指を絡めてしまうのは止められない。
時が凍ったかのように、雲雀は唐突に動きを止めた、そして、
そっと舌を退くと、戯れみたいに歯でこちらの唇を軽く引っ掻いてから、
恐らくゆっくりと上体を起こしたのだろう、視界を塗り潰す闇が若干薄くなる。