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□斜陽と泡沫の白昼夢
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―空はどこへいっても同じだ、と人々は言う。旅人や海で遭難した人、亡命者、瀕死の病人は、そういう思いに慰めを見出す。そしてもし人が神秘的性格の持主なら、たしかに慰めや説明さえもが、その切れ目のない空から降りそそいでくる。【ジェイコブの部屋】―

 甲高い鳥の声音に名を呼ばれた気がして、脚を止めた。
 しかし、振り返った視界に映る、傾いた陽光によって朱色に染められた廊下は、グラウンドから風に乗って流れてくる運動部の喧噪が虚ろに漂っているのみで、そこに見慣れた黄色を見出だすことは出来ない。
 気のせいかと半ば無意識に眼を細め、雲雀は止めた脚を踏み出そうとするが、刹那、ヒバリ、と鳴く声音が先程よりも幾分はっきりと響き、やはり、と顎を上げる。
 四方へ改めて視線を廻らせてみるが、先程同様黄色の羽を持つ小さな鳥の姿はどこにも見当たらず、視界が代わりに捉えた、音楽準備室という札がかかる扉に手をかけてみた。
 がらり、と重々しい音を奏でながら開く安っぽい戸。
 途端、埃臭さが鼻孔に突き刺さり、雲雀は思わず眉を歪めたが、さして構うことはせずに音楽準備室の中へと脚を踏み入れ、グランドを臨む小さな窓に歩み寄る。
 普段授業では使われない部屋だからなのか、それとも、雑に並べられた長机の上だけでなく床にまでも楽器や薄汚い段ボールが積み上げられていて始末に負えないからなのか、久しく掃除がなされた気配のない室内に、小さく一つ溜め息。
 がらくた置き場としてしか使用されていないのなら、全て処分させてどこかの部か委員会に貸し出した方が良いな、と埃が厚く積もった窓の桟を、つ、と指でなぞり、錠を外して勢い良く窓硝子を押し開く。
 ふわり、と雪崩れ込んでくる風は、夏の衰退を感じさせる生温かいもので、決して心地好いものではなかったが、埃に澱んだ室内の空気を鮮やかに裂いてくれた。
 「ヒバリ、ヒバリ」
 窓が開くのを待ち構えていたかのように、黄色い鳥が飛び込んでくる。
 手を差し出せば、人差し指にその小さな鉤爪を引っ掛けて柔らかそうな羽を静かに畳み、ぱちぱち、とその円い瞳を瞬かせる小鳥。
 雲雀は手近にあったエレクトーンの椅子を引き、そこへ腰をかけながら、鳥の頭を人差し指で軽く撫でてやる。
 気持ちが良いのか、瞼を下ろして大人しくしている小鳥に、意図した訳ではないけれど頬が緩んだ。
 座して肩から力が抜けたことに加え、人差し指に感じる小動物特有の温もりと、斜陽の乾いた温度に、ふわり、と鼻の付け根に眠気が香り、思わず欠伸をこぼせば、ふと、視界の端に過る紅。
 軽い羽音を立てて飛び上がった黄色い小鳥に飛びかかるように窓枠を越えてきたその山吹色の流線は、すとん、と身軽にエレクトーンの鍵盤の上に降り立ち、紅玉のような紅を瞬かせて、にょぉん、と鳴く。
 「…君、」
 長い尻尾をしなやかに揺らすその猫に、雲雀は微かに眉を上げた。
 「確か、獄寺隼人の」
 子猫は雲雀の言葉を肯定するように耳を、ぴん、と立て、雲雀の膝の上へ飛び乗る。
 何?と見下せば、機嫌良さそうに喉を鳴らしながら頭をこすりつけてくる猫に、雲雀は、ふぅん、と眼を細めた。
 獄寺隼人と一緒にいるこの猫は、いつも勝気に眼を吊り上げていたような気がしたが、こんな貌も出来るらしい。
 そっとその頭に手を乗せてみる。
 ふんわり、とした猫特有の柔らかな毛並み。
 にぁ、と子猫は嬉しそうに眼を細め、ざらり、と雲雀の手を舐めた。
 危険はないと判断したのか、小鳥も滑るように空を切って雲雀の肩で羽を休める。
 ヒバリ、と囁くように鳴く鳥の声音。
 少し強めの風に散らされ、どことなく遠く聞こえるグラウンドの喧噪。
 ごろごろ、と甘えるように低く鳴る猫の喉の音。
 それらは、傾いた陽光の茜色に満たされた狭い室内の静寂をより深めるかのようで、雲雀は膝の上で丸くなった猫の背を撫でながら、壁に背を預けた。
 が、そのまま下ろそうとした瞼は、心地好い沈黙を裂くように突如として響いてきた高い靴音に、軽い瞬きだけで再び上がる羽目になる。
 「瓜!」
 だん、と粗雑に準備室の扉が開け放たれ、間髪容れず飛び込んできたのはパールグレイの髪を持つ少年。
 「てめぇ、雲雀の鳥食ったら、まじで咬み殺され」
 肩を大きく上下させながら少年は紅い眼を持つ子猫を睨みつけて声を荒げるが、微かに視線を上げて、その猫を抱く人間を視界に収めると、言葉を半ばで切り、げ、と目元を引き攣らせた。
 「ひ、雲雀…」
 「獄寺隼人」
 雲雀が顎を上げ、静かにパールグレイの髪の少年の名を紡げば、獄寺は半ば無意識に退路を求めるように左の脚を退く。
 その様に小さく息を吐き出し、雲雀は膝の上の猫を抱き上げた。
 「この子を探しにきたんでしょ?」
 何となく声音に刺を滲ませる気分になれなくて、ただ単調に綴れば、それが意外だったのか、訝しむように獄寺は眼を細めたが、ほら、と猫を抱いた手を差し出せ
ば、おずおずとこちらへ歩を進める。
 「悪ぃな」
 若干ばつが悪そうに子猫を受け取るべく獄寺は手を伸ばした。
 が、子猫は獄寺の手に渡った途端、むずがるように身を捻り、とん、と軽い音と共に地に下りる。
 「おい、瓜!」
 気の強そうな眉を上げ、子猫を捕まえようと伸ばした獄寺の手に、瓜は爪を立て、獄寺が息を呑んだ隙をついて雲雀の脚の後ろへと身を隠した。
 「…凄い莫迦にされてるね」
 自分の脚の後ろで見せつけるように手を舐める瓜を見下し、雲雀は意図的に声音へ呆れの色を滲ませる。
 ほっとけ、と獄寺は忌々しげに吐き捨て、瓜と視線を合わせるように地に膝をついた。
 「瓜、てめぇ、いい加減にしろよ。さっさとこっちに来い」
 子猫の紅い瞳を上目で睨みつけ、そろり、と間を測りながら手を伸ばす獄寺は、さながら威嚇する猫のよう。
 低レベルなやりとり、と雲雀は小さく息を吐いて脚を組む。
 その雲雀の様をどう解釈したのか、獄寺は不機嫌そうに雲雀を見上げたが、ふと瞳の灰色を深くすると、結局何かを紡ぐことはせず、貌を伏せるようにまた瓜へ視線を戻した。
 そして、独り言のように、ぽつり、と言葉をこぼす。
 「こいつはどうせ嫌いなんだろうよ、俺のこと」
 その声音が、どことなく酷く寂しげに聞こえ、雲雀は獄寺を見下したまま、緩く瞬いた。
 この角度からでは獄寺の表情を窺うことは出来ない。
 ただ、思い出したように窓から入り込んでくる風に揺らされる眼下のパールグレイの髪は、酷く柔らかそうで。
 ほとんど、無意識だった。
 軽く、獄寺の頭の上に手を載せていた。
 ひくん、と獄寺の躰が強張るのを手に感じた次の瞬間、彼の見開いた瞳がこちらに向く。
 その瞳の色に、雲雀も思わず軽く眼を見開いた。
 彼の虹彩が、日本人によくある茶でないことには気付いていた。
 しかし、瞳孔の黒が目立つそれは、灰色だとばかり思っていたのだが、こうして至近で見ると、ただの灰色ではないことが分かる。
 ほんのり緑がかっている。
 呆然と、どこか無防備に眼を見開いてこちらを見詰めてくる灰緑色の瞳は、見慣れていない所為なのか何故か人間の眼には見えず、本当に猫みたいだ、と雲雀は口内で噛み締めた。
 なんとなく、そのまま彼の頭を撫でるように手を動かせば、思ったよりも細い髪が指の間を擽って心地好い。
 「っな、」
 決して優しいとはいえない手付きで髪をかき乱されて我に返ったのか、かっと目元に朱を上らせ、獄寺は弾かれたように立ち上がった。
 「何しやがる」
 「何、って」
 雲雀は視線だけで獄寺を追い、彼の問いに応えるべく口を開いたが、ふと明確な応えが自分の中に無いことに気付き、口を噤む。
 仕方無く、別に、と発せば、莫迦にされたと思ったのだろう、別にって何だよてめぇ、と獄寺は強く両の手を握り締める。
 ダイナマイトでも出すかな、と雲雀は半ば無意識に袖口に仕込んだトンファーを指でなぞった。
 しかし、獄寺の手が衣嚢に差し入れられるより早く、雲雀の足元に座っていた瓜が立ち上がり、身軽に身を踊らせて獄寺の脇をすり抜ける。
 「あ、待て、瓜」
 そのまま準備室の扉をくぐって廊下へと飛び出していった瓜に、獄寺は小さく舌を打った。
  「あれじゃどっちが飼い主か分からないね」
 ちらりと獄寺の灰緑色の瞳が再び自分の方に向いたので、雲雀は唇の端を持ち上げてみせる。
 「てめぇ次会ったら覚えてろ」
 無邪気ともいえるような苛立ちの色を瞳に滲ませ、獄寺は、ぎりり、と奥歯を噛み締めると、踵を返して強く地を蹴った。
 瓜、止まりやがれ、と紡ぐ声音が、彼の靴音と共に少しずつ遠くなっていくのを味わうように瞼を下ろせば、あの不可思議な緑を帯びた灰色が漆黒の中に蘇り、雲雀は微かに頬が緩むのを感じる。
 「次、ね」
 彼の言葉を噛み締めるように呟けば、何となく悪くない心地がして。
 ヒバリ、と耳元で鳴いた小鳥の頭を、そっと撫で、一つ欠伸をこぼした。

-End-



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