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□例えばこんなまほろば
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 彼の躰の線の細さを際立たせる、細身のロングコートは真っ白で、
 月華を浴び、ぼんやりと闇に浮かび上がるその様は、
 恒星の如く、あたかも自発的に光を放っているかのようだった、から、

 途方もない幻想性と、そして、打ち震えるくらいの刹那性をそこに感じてしまったような
気がして、僕は、

 思わず、ふっと、息を呑み、
 高校に進学してからも相変わらず羽織り続けている学ランが、かさり、と衣擦れの音を奏でるのにも構わず、
 唐突に、脚を止めている。

 何で彼が?と、そう思った、でも同時に、
 そう思っている自分を、白々しいとも思っていた、何故って、

 何となく、彼がいるような気がして、
 僕は、ここに来たんだから。
 
 只中に深く澄んだ湖を抱える白樺の林を適度に切り開き、遊歩道やら広場やらを設けて造られたこの公園は、
 昼日中には、それなりの賑わいを見せているのだけれど、流石に、
 吐き出す息が、淡雪のように白く凍るこんな寒い日に、わざわざ漆黒で閉ざされた公園を訪ねようだなんていう物好きは滅多にいないらしく、

 耳が痛いくらいの沈黙を湛えた(たたえた)この世界に存するのは、
 どうやら僕ら二人だけだった。

 結構な大きさを誇る湖の周りを、ぐるり、と囲む遊歩道の洒落た鉄の柵に手を起き、
 天穹の頂点に座す太陰の光に、その不可思議なパールグレイの髪を無造作に舐めさせる獄寺隼人は、僕に気付く気配も見せず、
 余程寒いのか、真っ白なコートの襟元を、真っ白な指で、きゅ、と合わせながら、
 湖の舟着き場で、時折思い出したように揺れる白鳥ボートの、そのふざけた丸い瞳にじっと視線を据えている。

 そして、その、
 至近を覗いているようで彼方を眺め、局所を見詰めているようで茫洋を見渡し、何かを見ているようで結局何にも焦点の合わされていない、その、眼差しは、明らかに、
 人を愛しているものだった、もしも、
 作り物めいた彼の色素の薄い灰緑色の瞳が、滲んでその色を常よりも濃いものにしていなかったなら。

 けれど、孔雀石のような彼のそれは、
 遠目からでもはっきりと分かるくらい、月光を艶めかしく映していて、

 だから、言い直さなくてはならない、つまり、

 幸福の象徴だと言わんばかりに真ん丸で、おどけた色の白鳥ボートの眼に向けられた獄寺隼人の眼差しは、
 明らかに、

 人を、愛していた、ものだった。



『ポッカリ月が出ましたら、
 舟を浮かべて出掛けませう。
 波はヒタヒタ打つでせう、
 風も少しはあるでせう。(湖上/中.原中.也)』



 夏の陽光が何よりも似合うあの男こそ、常に朗らかでどんな時にも笑みを絶やさないあの男こそ、
 獄寺が、愛してやまない男なのだと気付いたきっかけが、何だったのかは思い出せない、でも、
 獄寺が、沢田綱吉と並んで校門をくぐる、まさにその一瞬、
 茜に染まった空を仰ぐ振りをして野球場の方へ視線を流すのを、応接室の窓から見る度に、
 絶望とも焦燥とも、瞋恚とも哀切ともつかぬ情動に支配されていたことは、
 まるで昨日のことのように覚えている、なんて、そんなことを、

 別に感傷に浸りたい訳ではなかったけれど、ぼんやりと思い出してみながら、僕は、
 ぱしゃり、と闇色の水の中に櫂を突き入れ、舟を滑らせていく、
 沖へ、沖へ、と。

 僕らを運んでいるのは、
 観光客用に丁寧に磨かれた白鳥ボートでも、陽気な橙色が眼に眩しいカヌーでもなく、
 恐らくは、何か湖上で事故等があった時に係員が使うのであろう薄汚い木製のみすぼらしい小舟で、そして、それは、

 戸惑いと微かな警戒の色を見せつつも僕に促されるままに、湿った落ち葉が貼り付いた小舟の腰掛けへ座した獄寺を追って、僕が飛び乗った瞬間、
 ぎしり、ととても嫌な感じに軋んだから、
 もしかすると、湖上で沈没するんじゃないか、と危惧したのだが、

 舟とはそう簡単に沈むものではないらしく、
 ひたりひたり、と律動的に湖上に刻まれる細波を受ける度、悲鳴を上げるように船底をがたつかせ、その身を、ぐらぐら、と揺らしながらも、
 破滅を有した水の底へと引きずり込もうという見えない力に、なんとか小舟は抗っていた。

 柔らかな葉の先を緩やかに揺らす程度の、しかし、頬から温度を奪い、ひりひりとした痛みをもたらすには充分な微風が、北の方から駆けてきて、
 慈しむように、でも、慈しむには粗雑すぎる所作で、
 獄寺のパールグレイの髪を、無造作にかき乱し、
 幾筋かのその髪は、彼の瞳にかかり、彼の視界を塞ごうとしている、にも拘わらず、獄寺は、
 邪魔な髪を払うこともせず、ただ、

 船縁から手を垂らし、不気味な黒を見せる水面を、指先で割っては、
 冷てぇ、と言って笑っている。

 水に濡れぬよう捲り上げられたコートの袖から伸びる、すらり、としたその腕は、
 現実味が感じられないほど、白かった。


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