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□韓国の嘘
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日韓併合の経緯

実は当時の日本では併合について反対の声の方が強かった。
ー 日韓併合論というのは、ずっと以前から日韓双方で議論されていたことだった。日本側にも賛成派と反対派がいたし、同じように韓国側にも賛成派と反対派がいた。
日本側においては、陸奥宗光、曽祢荒助、竹越興三郎などは明確に反対していたし、伊藤博文もかなり消極的だった事は有名だし、井上馨や原敬も伊藤と同じだったようだ。一方、長州閥の桂太郎、山縣有朋、寺内正毅などは、併合推進派だった。対する韓国側においても、賛成派と反対派は割れていた。
李用九などが率いる文明開化派の最大政治組織「一進会」が強く併合を推進したし、総理大臣の李完用を始めとする閣僚の約半数が推進容認派だった。一方、それまで朝鮮民衆に塗炭の苦しみを与え私利私欲を貪っていた皇帝高宗や両班や儒者達は反対していた。
1909年に日本で併合が閣議決定したものの、併合の時期について、曽祢荒助は「就任時、伊藤、桂と三者会談にて、5,6年様子を見て」と合意していた。ところがその一年以内に韓国側の方で大きな変化があった。
本音(あまり気が進まない)を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。総理大臣の李完用の側近である、新小説「血の涙」で知られる李人植が密使として動いたのだ〔ー2001.08.27.中央日報〕
また、一進会は1909年12月4日「韓日合邦を要求する声明書」を作成し、上奏文と請願書をそれぞれ李完用総理、皇帝純宗、曽祢荒助統監に提出した。しかし、日本側の併合反対派であった曽祢荒助統監は、この合邦案を時期尚早との理由で却下すると共に、新聞社、通信社に働きかけ反対の論調をとらせた。それでも韓国側の併合推進派である一進会は上奏書を却下されてもまた提出し、これを繰り返すこと四回目に桂首相の指示により遂に受け取られた。… これが、日韓併合の歴史的経緯である。

一進会が1909.12.4.“韓日合邦を要求する声明書”を作成し、上奏文と請願書をそれぞれ李完用総理、皇帝純宗、曽祢荒助統監に提出したとされるその声明書の文面。
ー《韓日合邦を要求する声明書ー 日本は日清戦争を通じて韓国を独立させ、日露戦争でロシアに食われかけていた韓国を救ってくれた。それでも韓国は、これを有り難く思うどころか、あの国にくっつき、この国にくっつきし、結局は外交権を奪われることになったが、これは我々が自ら招いたことである
。丁未条約を締結されることになったのも、やはりハーグ事件を起こした我々に責任がある。
伊藤博文公が韓国国民を見守ってくれ、太子を導いて我々韓国のために御苦労されたことは忘れられない。にもかかわらずハルビンの事件が起きてしまった以上、今後いかなる危険が到来するのかわからない。
これもまた韓国人自らそうしてしまったのである。ー中略ーそれゆえ劣等国民として保護されるよりは、いっそ日本と合邦し大帝国を作って世界の一等国民として日本人とまったく同じ待遇をうけながら暮らしてみよう…ー1909年12月4日.一進会(百万の朝鮮人会員)》http://sora1975.blog88.fc2.com/?mode=m&no=45&cr=de816fb10627eee2f925595d530ef48f
しかし、これを受けた日本側は、清露を追っ払ってまだ日も浅く糞だらけの原始社会を日本の一地方とするには莫大な負担がかかるばかりで何の旨味もないと“時期尚早”と言って却下した。ところが韓国側は、却下されたのにしつこくも四回もこの種の提出を繰り返したのである。
…これの一体どこが日本の侵略なのか!?
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