IF〜もしもの世界〜
□淡花の願いをつかみとれ
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この屋敷に住み始めて、一年が過ぎた。
主の居なくなった部屋を掃除していた彰子はふと、知らない気配を感じ、妻戸の外に視線をくれる。
そこには、薄茶の長い髪と、紫の異国風の衣を纏った人物がすのこに腰掛け、外を眺めていた。
あのあと久しぶりに長話をした紫苑は、疲れたので了承を得てほんの少し休憩を取らせてもらっていたのだ。
「ねぇ、あなたは誰?」
その誰何の声に振り向いたその人物の顔に彰子は瞠目した。
「まさひろ……?」
その無意識に呟かれた名に彼もまた、瞠目した可のように見えたが、一瞬ののちにそれは消えてしまった。
「――俺の名は≪紫苑≫。安倍の姫君、しばらくこの邸に世話になります」
その低くよく響く声は、≪まさひろ≫の父、吉昌によく似ていた。
だが、そこに含まれている響きが違う。
笑っているのに、笑っていない。
透明な瞳の奥と紡がれる言葉に含まれているそれはどこどなく寂しげに思える。
それは、あの最後の日の事を嫌でも思い出させる。
だから、驚く彼の手を取ってのかもしれない。
「彰子よ」
「え?」
「彰子よ。安倍の姫君なんて呼ばないで」
無意識に、隠さなければいけない自分の本当の名を紡いでいた。
あのはじめて彼と出会った時と同じ言葉を言っていた。
声が蘇る。
――彰子よ。藤原の一の姫なんて呼ばないで。
まっすぐな言葉と瞳が自分に向けられていた。
「彰子、姫。名で呼ばさせてもらいます」
微笑む彼に彰子はさらにずいっと攻め寄る。
「敬語もやめて」
「はい…じゃなく、わかった。だから、離れて、彰子姫」
ややのけぞりながらも正された言葉に満足し、体を離し笑う。
「よろしく、≪紫苑≫」
13/1/25の夜 5/13修正