シャチ中編

□黄昏に暮れて #2
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喩えるなら「現在」とは自ら積み上げた「過去」のてっぺん。それは輝くはずの「未来」が惨とした「現在」となりそして二度と掴めない埋もれた「過去」になる逆算の積み木だ。

だが名無しさんにとって「今日」は「昨日」の続きではない。そして「今日」は「明日」へも続かない。「今日」は「今日」をただ繰り返すだけの今日限りの日。

煩悩を振り払え
昨日はもう終わった

こんな刹那主義な私を知ったら、いつも自分を気に掛けてくれているケイおじさんは驚くだろうか…でもそうやって櫛風沐雨とした今日を乗り越えなければ、また来る「明日」が恐かった。

親を亡くしてからの名無しさんは本意でないながらに自身の小変を拒んでそれを駆逐してしまう術に熟達していて

人知れず酷く…冷めていた



あんな事があったのでさすがに眠りは浅かったが、初めてだらけの次の日も名無しさんはいつもと変わらず朝からバタバタと動き回っていた。

予約客のチェックインは昼。しかも一週間という長期滞在だ。ここで張り切らないで一体いつ張り切るというのだろう。

日々の日課である掃除にも殊更力が入る。午前中の内に床も窓ガラスも擦り減る程に磨き上げ、ロビー兼食堂に四つあるテーブルのクロスを洗濯済みの物に替え、仕上げに庭にある花を摘み取り綺麗に束ねてはささやかながら各所に飾った。

島の端くれにある小さな宿の小さな花は窓からそよぐ爽秋の風にゆらゆらと揺れて今日もイチョウの黄金色を透かしていた。


カランカラン…!


正午を少し過ぎた頃、景気良く鳴ったドアベルにそれまでテーブルで帳簿と睨めっこをしていた名無しさんは尻を叩かれた様にガタリと立ち上がる。

「いらっしゃいませブラウンさん、ようこそガレイリ島へ…!この度はこんな辺境の宿にお越し下さいましてありがとうございます。私はオーナーの名無しさんと申します、どうぞよろしくお願いします。」

エプロン姿で深々と頭を下げてから客を出迎えれば、予約の際の電伝虫と同じ顔をしたスーツ姿の中年男性、ブラウン・ラウが微笑んでいた。そしてその後ろに佇むもう一人の客は…同じくスーツ姿の自分と同年代の男であった。

ん?親子…??

旅行客といえば大概はカップルやご夫婦・家族連れが定石であるに男性二人という珍しい組み合わせに刹那間の抜けた顔をしてしまう。

するとそんな彼女の胸底を読んだのかブラウンさんが品のいい笑顔で手を差し出し、こう言ってきた。

「こちらこそお世話になります。実は私達、仕事でこの島を訪れた者なんですよ。なので少し街から離れていて落ち着いた感じの宿を探しましてね、それでこちらにさせてもらったんです。」

「あぁ、お仕事で…そうですか。」

気にはなるも「どんなお仕事ですか」なんて野暮な事は聞かない。客の内情に足を突っ込まないのは商売人の鉄板だ。

だが凛と伸びた背筋と高そうなスーツを嫌味なく着こなしているあたり、自分の様なしがない商人でない事は間違いないであろう。

「確かに此処でしたら日中も静かなので…あ、では観光はされないんですか?」

同年代の男とも握手を交わしながら紡いだ当たり障りのない問いに、すると答えたのはさっきから宿の様子を目で窺っていたその男だった。

「あのさ、俺暇なんだ。だからよかったら君が街を案内してくれない?」

「…へ?」

てっきりブラウンさんと同じ人種かと思っていたところにまさかの軽い口調。虚を突かれて彼を見遣れば、さっきまでの澄まし顔は消えており年相応の笑みが浮かんでいた。柔らかそうな茶色の髪と女の子みたいな綺麗な顔立ち。

「エミリーさん、そんな無茶を言ってはいけませんよ。名無しさんさんにも色々と仕事があるんですから。」

「は?だってどうせ他に客いないんだろ?俺、こんな所に一週間も籠ってたら頭おかしくなりそうだし…金なら倍払うから。なぁ、いいでしょ?名無しさんさん。」

言って腕を引き寄せられ身体が傾いた。背丈は名無しさんとそれ程変わらないエミリーは細身の体型ながらその腕の力は案外強い。ついでに我も強そうだ、相当。

昨日といい今日といい…

内心苛立つもしかしここで相手を袖にする訳にはいかない。何せ彼らは大事なお客様である。エミリーの腕からそっと抜け出しながら名無しさんはブラウンさんに言った。

「私なら、午後はいつも買い出しに出ますから、その時で良ければ案内しますが…」

「いやしかし…」

「エミリーさんの仰る通り、他にお客さんいませんし…どうせ暇ですし。ハハハ…」

自嘲気味に笑って見せれば、ブラウンさんは申し訳なさそうに会釈をした。

「ではまずお部屋にご案内します。昼食はもうお済みですか??」

「ええ。途中で食べてきましたよ。」

二人の鞄を受け取り二階の客室へと案内する。一番奥にあるこの宿で一番広いツインの部屋だ。扉を開け二人を中へ通し、トイレや風呂の場所・アメニティの説明をする。

朝摘みの花が窓際で客人を歓迎するかの様にゆらり…微かに揺れた。



急遽決まったエミリーの観光案内の為、名無しさんは一階の自室に戻り急いで支度をする。買い出しだけなら本当はエプロンを外してそのまま行くのだが客の相手も兼ねるので、普段は滅多に袖を通す事のないよそ行きの服に着替え、梳かした髪は束ねずそのまま下ろした。

コンコン!

と、そこにノック音が響く。

ガチャ…

「は、はい…」

開ければエミリーがスーツ姿のまま立っていた。「支度出来た?」初見の澄まし顔で首を傾げた彼に「はい」と頷き部屋を出た名無しさんはエミリーと二人、ブラウンさんを宿に残して賑わう街へ向かった。

今日も観光客でごった返す中心街。爽やかに晴れ渡る空には高層に浮かぶ薄い雲がゆっくりと少しずつ流れている。

「此処がこの島の中心街です。最近はホテルも増えたしイチョウの景色もぐるりと見渡せるので、観光客は皆あまりこの中心街から出なくなったんですよ。」

案内とはいえ言ってて自分に針が刺さる。切実な現状をあくまで淡々と言葉にするのは結構キツい作業で。

「確かに店も揃ってるし、二泊三日程度なら此処で充分楽しめますよね。土産屋を見て廻るだけでも一日潰れます。」

「んー、だね…」

観光に興味が有るのか無いのか、いや絶対無いであろうエミリーはつまらなそうに前を見据えて歩いていた。それでも名無しさんは丁寧に説明を続ける。

「でも、此処からは見えない景色もあります。真髄と言ったら大袈裟ですけど…うちの様な島の端にある宿には、この街の利便性にも劣らない魅力があるんです…お気付きでしたか?」

「ん…?」

あれ、どうやら気を引いた様だ。名無しさんのその言葉に彼は突然道のど真ん中で足を止めた。

「…何?」

邪魔だと怪訝に肩を掠める街人や観光客の流れに構わず、エミリーは次を待っている。

「あ、あぁ…じゃあちょっとそこのベンチにでも座りましょうか…」

人を掻き分けさり気なく道端のベンチへ移動して、彼だけベンチに腰を下ろし名無しさんが見下ろす態になった。

「えっと、島の端にある宿は山に近いですよね。うちの場合は、宿の先がちょうど山の稜線の切れ目なんですよ。で、島の西側です。なので水平線に沈む夕陽を唯一拝める所に位置してるんです。」

「うん。」

「夕陽は海に沈む間際が最も眩しくて美しい…つまりは、皆が求めるこの島の色が一番濃い場所って事です。」

「あぁ…」

「私が小さい頃は逆に中心街のほうが惰気満々としてたんですけどね。今は流行りの情報だけが外に浸潤してますから、せっかくこの島に遊びに来る皆さんの選択肢自体が狭くなってしまって。」

「……」

「だからうちもそろそろ潮時かなぁとかそんな事ばっかり考えたり…ハハハ。」

親が遺してくれた宿の行く末を憂う瞳を今日も美しい黄色の山に流した名無しさんに、上目遣いのエミリーが長いまつ毛を一度大きくしばたたかせた。

あ、ちょっと愚痴っぽかったかな…

だけど彼はそれ以上何も聞いてこなかったので、やはり興味ないかと思い至り名無しさんも話を閉じた。

すると

「ねぇ、もう戻ろうか。」

「え…?」

「疲れた。」

「なっ…」

言ってエミリーは立ち上がり、名無しさんの手を取って来た道をまた歩き出した。そのあまりにも強引な行動にはただただ唖然とするしかないだろう。

何なのこの人…

結局、観光案内という名目はすぐに端折られ、ついでに卵も買いそびれた名無しさんはそのまま宿に戻る事となった。
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