シャチ中編
□黄昏に暮れて #5
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ローとペンギンはあまりブラウンさん達と顔を合わさぬよう日中は船で過ごし、食事の時間も彼らとはズラしていた。
シャチはこの際名無しさんの友人として振る舞う事として見張り役も兼ねて宿の手伝いに励む。すっかり若夫婦気取りだ。
ブラウンさんは部屋に籠っている事が多く、代わりにエミリーは殆ど宿に居なかった。シャチが名無しさんにベッタリ張り付いているので、彼らが彼女一人に接触するのは今のところ不可能であろう。
「この花みんな名無しさんが植えたのか?」
「うん、そうだよ。綺麗でしょ?」
名無しさんを取り巻くそんな五人の客人がこの宿に来てから七日目の朝、見た目とは相容れず爽やかに庭の花々に水を撒くシャチは隣で一緒に作業をする彼女の顔をちらちらと窺う。
あの日の名無しさんの艶声と柔らかい感触…それは記憶から掻き消そうとすればする程鮮明に蘇り、ブンブンと頭を振っては心の中で雄叫びを上げる日々で。
だがやはり彼女は終わった日を振り返ろうとしない。シャチが手を出した次の日も何事もなかったかの様にけろっとしていた。そんな掴めない名無しさんだからこそ尚更惹かれてしまうのか。
いっそあのまま刻んでいれば
このコは俺に堕ちただろうか…
「あ、そうだシャチさん。私、今日はまた午後から役所に行くんですけど…」
「…役所?…なら俺も一緒に行く。」
「ううん、ちょっと大事な話をしなきゃいけないから…一人で行きます。」
「おぉ…そっか、分かった。」
雑念を振り払い再びちらりと見遣った彼女は、俯きがちに苦い顔をしていて
それが強く心に引っ掛かった。
ー
書類を詰めた鞄片手に名無しさんが向かったのは役所ではなくグロラスホテルだった。
「わぁ…」
自分の宿がまるでゴミ屑みたいに思えてしまう豪華な造りとその繁盛ぶりに気後れしながらも、何とか顔を上げてフロントに声を掛ける。
「あの、すいません…」
「ようこそいらっしゃいませ!ご予約のお客様ですか?」
飛び切りの営業スマイルに出迎えられて至極戸惑い、「違うんです…」と小さな声で用件を伝える。
「えっと…こちらのホテルにこの書類を持ってくるよう、ブラウンさんに言われている者なんですが…」
見せた書類にフロントの女性から笑顔が消えた。「少々お待ち下さいませ…」口早にそうとだけ言うと彼女は内線電伝虫で誰かを呼び出した。
「名無しさんさん。」
暫くして後ろから掛かった声には聞き覚えがあった。見れば澄まし顔のエミリーが此方に歩いて来る。途中すれ違う従業員達はわざわざ立ち止まり彼に深く一礼をしていた。
一体、どういう…
「やっと来てくれたね。待ってたよ?」
彼は名無しさんの前で足を止めるとニコリ…相変わらずの軽い口調で笑いながら、いきなり彼女の手を取った。
「エミリーさん…?」
「話は部屋で。来て。」
そのままエレベーターに引き込まれた名無しさんは、ホテルの最上階へと連れて行かれた。
ガチャ…
「どうぞ。」
「……」
開かれた扉の向こうに一歩足を踏み入れた途端、名無しさんは息を飲む。そこは、ふかふかの絨毯、上品な花柄の壁紙、大きなベッドに大きなソファ、奥には広いバルコニーが見えるそれはそれは美しく豪華な部屋だった。
「ここはうちのホテルで一番いい部屋。気に入ってくれた?」
「え…?」
うちの…ホテル?
きょとんと振り返った彼女をエミリーはくすりと嗤う。
「あれ?ブラウンから聞いてなかった?…俺、このホテルの二代目、次期経営者。」
「経営、者…」
動揺を隠せない名無しさんを余所にエミリーはドサリと大きなソファに腰を沈めた。
「そんな顔しないでよ。言わなかっただけで別に騙してた訳じゃないし。それに同業者があんたの宿に泊まっちゃいけない決まりもないでしょ?さぁ、座って。取り敢えずワインでも飲む?」
名無しさんはその場に根を生やしたまま真っ直ぐに彼を見据えて当然の事を問う。
「このホテルの人間が何でわざわざ…うちの宿なんかに…」
すると、その睨むような彼女の目が気に入らなかったのか、エミリーの態度が一変する。
「ふふ…何かさぁ?半分傾いたしょっぼい宿を経営してる女が、なかなかこっちの提示する話に喰いつかないってブラウンから聞いてさぁ。しかもその女、買収してる役人の同情引いちゃうくらい健気で可愛い女だっていうから、実に興味深くて。」
「……」
「確かにあんた、想像以上に可愛いかったわ。俺の街を俺に案内しながら『お気付きですか?』とか『この島の色が一番濃い場所なんです』なんて…純粋な顔して言うんだもん。堪んないよね。」
「……」
「けど知ってるよそんな事。だからあそこにデカい施設を建てるんだよ。だから今、無駄なボロ宿を駆除してんだよ。言っとくけどあんたんとこの宿なんてのはね、こっちが手を出さなくてもどのみち潰れんの。それを高値で買い取ってやるっつってんだからよ、まずは俺に跪いて感謝しろ…」
人を見下げた物言いにこれがこの人の本性かと愕然とする名無しさんに、しかしエミリーはそれ以上の言葉を投げてきた。
「それからあんたは俺が買ってやる。親無しで家無しのあんたが、これからはいい服着て、いい酒飲んで…そんで毎日この部屋で俺に抱いてもらえるなんて、まるで夢みたいだろ?」
噛んだ奥歯が耳の奥でギリリと音を立てる。
私を買うとか、私の大切な宿までもをそれこそゴミみたいに蔑まれて。何でこの人にここまで言われなきゃならないの…
別に立派なプライドとかそんな物は無いけれど、でももう…これ以上は我慢ならなかった。
「エミリーさん。」
「…何?」
「土地は売ります。でも話はそこまでです。じゃあ、失礼します。」
自分でも驚く程冷静にそう言った名無しさんは、サインの入った書類をテーブルに叩き付けて扉へ歩き出した。
しかし
「…何その態度。じゃあいいんだ?あのケイってオヤジの店がどうなっても。」
「…っ」
その言葉に、ドアノブに伸ばしかけていた彼女の手は何も掴まぬままゆっくりと垂れ落ちた。
「土地を手放せば…それでいい筈じゃ…」
「あのさ…、ビジネスってのはね?あんたみたいな弱い立場の人間が、上にどうこう言う資格は一片もないの。」
「……」
「んじゃ、契約はベッドで交わそうか。」
ソファから立ち上がったエミリーは後ろから名無しさんの耳元にそう囁くと、逆らわない彼女を大きなベッドに押し倒してそのまま組み敷く。
「そうやっておとなしくいいコにしてれば悪い様にはしないから。」
「……」
「あんたは今日から…俺の物だ。」
言うなり耳の中に舌をねじ込まれ、シャツの上から胸を弄られた。じっとりと熱い息遣いが身体に纏わり付いてくる。
「っ…っっ…」
「声出せよ、ほら…」
だけど抗う選択肢を取り上げられた名無しさんはただぎゅっと目をつぶりそれを堪えるしかなかった。
と、その時…
リンリンリン!
突然部屋のチャイムが轟いた。誰か来た様だ。エミリーは「んだよ…」と舌打ちをして扉に向かって恫喝する。
「取り込み中だ…!」
リンリンリン!
「後にしろ…!」
リンリンリン!
しかし、場にそぐわないその軽快な音は聞こえている筈のエミリーの声をまるでからかうかの様に鳴り続く。
リンリンリン!
「畜生、誰だ…クビにしてやる。」
訝しくベッドを離れたエミリーが乱暴に扉を開けた。
ガチャ…!
「失せろ…!」
「失せるのはてめぇだこの青二才が…」
ガツっっ…!!
開けたと同時にエミリーが吹っ飛び床に倒れた。名無しさんがベッドからその先にいる人物を見遣れば…
「シャチ、さん…」
そこにはメラメラの実の能力者の如く怒りの炎を纏うシャチがいた。彼は名無しさんの服がまだ乱れていない事を目視すると床に転がるエミリーに向き直る。
「立て…」
「ちっ…てめぇ…何しやが…」
「いいから立て…」
いつも優しいシャチが初めて見せる恐い顔。指を鳴らし顎をしゃくる彼は酷く冷めた目でエミリーを見下ろす。
「おいおいお坊ちゃんよ…まさか一発でダウンとか無しだぞ。それじゃ俺の気が済まねぇだろが…あ?」
「ぐ…っ、こんな事して…」
「男ならなぁ…女押し倒すより先に、まず喧嘩を覚えろ…」
そう言って、片膝を立てるのがやっとだったエミリーの脚を思い切り蹴り払い再び彼を床に倒したシャチは唸るエミリーが顔を埋める高価であろう絨毯に唾を吐いた。次にテーブルにある売買契約の書類を破り捨ててからやっと名無しさんに手を差し伸べる。
「…歩けるか?」
「ん…」
「帰るぞ。」
「うん…」
触れたシャチの手は、エミリーとは全然違う優しくて温かい手。ホテルを駆け出す彼の手を強く握り返した名無しさんは、息を切らしながらその逞しい背中をずっと見つめていた。
ー
ホテルでの一件を連絡を受けて知ったのだろう、宿に戻るとブラウンさんは荷物と共に消えていて、代わりに律儀にも五日分の宿代が食堂のテーブルに置かれていた。
「……」
「……」
何となく気まずい雰囲気の中、シャチは帽子の上から頭を掻き、名無しさんは力なく鞄をテーブルに置く。
「シャチさん、私…」
「あぁぁ…いい、何も言うな。」
あの部屋でエミリーに何をどこまでされたのかをシャチは聞かなかった。というより聞きたくもない。あの小僧が彼女に跨がる光景を想像するだけで口から火を噴きそうだ。だが名無しさんはシャチの制止に首を横に振って言葉を続けた。
「私、エミリーさ…あの男に触られて凄い嫌だった。気持ち悪かった。」
「名無しさん、言わなくていい…」
「そしたらその時…シャチさんの顔が浮かんで…シャチさんじゃなきゃヤダって思った。シャチさん以外の人に触られたくないって思った。」
と、むぎゅり…
「え……っ」
お、おい何だ…
一体何なんだこの状況は
誰か、説明してくれ
だって名無しさんが…
名無しさんが…
「シャチさん…っ」
俺に抱きついて…きた
細い腕を懸命に腰に回してそんで俺の胸に顔を寄せて目を閉じている
「ぅうおぉぉ…!」
その瞬間、パン!とパーティの封切りみたいに脳が弾けたシャチは思わず彼女を引き剥がす。そしてくるりと背を向けると逃げる様にカウンターの中に入っていってしまった。
「ご、ごめん…私…」
だから駄目だってば、その顔は…
もう限界だからっ
「違ぇっ…なんだっ、アレだっ、そう!取り敢えず着替えてこいっ…んで奴に触られたその服は全部捨てちまえっ!んで新しいの一緒に買いに行くぞっ…!」
「へ?」
「だからっ、支度…支度だっ!」
「…う、うん。」
半ば強引に彼女を食堂から追い出した。だって、抱きつかれた事は勿論だがそれ以上に…自分を見る彼女の目がまるで自分に想いを寄せる女の目ぇみたいで。
「……」
惚れた女が心を許してきた瞬間だった。
しかしそれと同時にペンギンの言葉がまた痛く脳裏を過った。
…『傷付くのはあの女だ』
ログが貯まれば俺はまた…海に出る
まだ袋に半分残る卵の山を見遣りながら、シャチは床を蹴った。
ー
「畜生あの野郎、ナメやがって…」
殴られて切れた口端の手当てを終えたエミリーはホテルに戻って来たブラウンさんにある物を乱雑に投げ遣った。
「シャチって男の素性を調べとけ。それからまずは此処の酒場に夜討を掛けろ…抵抗する様なら殺してもいい。」
「エミリーさん、本来の目的はあの女の土地ですよ…もう何もしなくとも、納めたも同然かと…」
「黙れ…!あんだけコケにされてこのままでいられるか?!あの女を絶対俺に服従させてやる!あの男にも目にもの見せてやる…!」
「しかし…あまり表立っての荒業はホテルの経営にも影響が…」
「いいから早く行け…!!」
二代目のご乱心に内心溜息をつきながらもブラウンさんは受け取ったメモと小銃をジャケットの内ポケットにしまい一礼をしてから部屋を出ていった。