シャチ中編

□黄昏に暮れて #1
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自生するイチョウの黄色が目を灼く山々に囲まれた秋島・ガレイリ島。此処は一年中その色を湖に映し、街を染める風光明媚な観光地で知られる島だった。

噂を聞き付けて近海から訪れる観光客で賑わう街は行き交う人皆、土産物の袋を手に持っている。安い物ではイチョウを模ったキーホルダーや昔ながらのペナント、高価な物だと繊細な手彫り細工のグラスや果ては宝石類まで様々だ。

他所からしたら笑える話かもしれないが地元の家々にもイチョウのペナントが必ず玄関に飾られている。それも一枚や二枚の話ではない。そして親から受け継いだキーホルダーをジャラジャラと鞄にぶらさげてはレア度を競い合って楽しむのが島の子供達のデフォルトであった。

この島に生まれ育った者達はそうやって美しい故郷を誇りに思い、偉大なる自然への敬意を持ち続ける事を義として、心にも懐にも多大なる恩恵を受けていた。

そんな穏やかな島の端くれに敷地だけは無駄に広い二階建ての小さな宿がある。築年数が古いのは見てくれからして明白ながら外壁や庭はきちんと手入れが行き届いており、家主の堅実さが窺える。

枯れる事のないイチョウの黄色と降り注ぐ夕陽の橙が同率に混じり合った光に照らされるそこは、規則正しく花壇に植え込まれた小さな白い花が色に透け、屋根のえんじは更に深みを増して輝く。

5年前に事故で亡くした両親から受け継いだその宿を一人慎ましく営む名無しさんの心にも、島の優しい秋色は分け隔てなく届いていた。

しかし側面から見れば島には立つ瀬のない弱者が溢れているのも事実で。右肩上がりの観光客目当てに近年は中心街にばかり大きなホテルが軒並み建ち、客足が中央に集中してしまっている。

ただでさえ立地的に不利な上に、これといったウリのない名無しさんの所の様な老舗宿はなす術なく経営を圧迫され、流行り廃りの後者となっていた。

無論名無しさんの宿も例に漏れず…というより後者レースを断然ぶっちぎっており、悲しいかなここ数年は上位圏内の椅子から滑り落ちた事がない。

そうなると酷いもので観光案内のパンフレットにある宿マップからは除外され、裏面の片隅に申し訳程度に宿名と連絡先だけが記載される末路の悪循環。

いつからか宿には飼い慣らした覚えのない閑古鳥が巨大な巣を作り親鳥雛鳥揃いも揃って耳を劈く大合唱の日々だった。

だが久しく明日は予約が一組入っていた。これも多分街のホテルの予約にあぶれた仕方なしの観光客であろうが。

まぁそんな内情はどうでもいい。おこぼれでも何でも、とにかく心尽くしのもてなしで是非ともうちのリピーターになってもらわなくては。

厳しい現実はひとまず机の引き出しにしまい、明日の買い出しに行こうと名無しさんは胸を張って街へ向かった。


カラリン…


「マスター、注文しといたお酒取りに来たよ〜。」

親の代から付き合いのある酒場に入ると馴染みの店の雰囲気がいつもと違うとすぐに察した。とりわけ広い店ではないのだがまだ夕食前のこんな時間に席がほぼ埋まっているなんて、こんなのは初めての事だからだ。

カウンターに歩を進めながらワイワイガヤガヤと騒がし店内を視界の端に窺えば、団体客だろうか…皆揃いの黒い服を着て其々のテーブルで其々に盛り上がっていた。

どうやらあまり柄のよろしくなさそうなその客達はそんなに女が珍しいのか、舐めるように此方を見遣ってくる。

訝しく思うも顔には出さず颯爽と踵を鳴らして行き着いたカウンターに上体を凭らせ、忙しなく料理を皿に盛るマスターに笑顔で声を掛けた。

「繁盛してるねぇケイおじさん、どっかで法事でもあったの?」

ケイおじさんとはこの店のマスターだ。幼少の頃から可愛いがってもらってるので今でも変わらずそう呼んでいる。

「ちょっ…名無しさんちゃんっ!」

「…ん?だって皆黒い服着てるから、葬式帰りの人でしょ?にしてもあれだよね、私も自分の親の時にしみじみ思ったけどさ…葬式の時のあの涙は何だったのってくらい、皆その後は待ってましたとばかりにグイグイ飲みまくるよねぇ…ハハハ!」

「しー!聞こえるからっ…」

「えっ…、何…」

忙しいからか?…いや違う。恰幅も良く普段は威勢のいいケイおじさんの額には脂汗が玉のように浮かんでおり、表情が蒼ざめている。こんなケイおじさんを見たのも初めて。

「注文の酒はそこのテーブルの下だ。金は後でいいから早く引き上げなさい…」

「へ…?」

「いいからっ…ほら、行った行った!」

まるで野良猫を追っ払うみたいにぺっぺとあしらわれ、名無しさんは子供の様に頬を膨らませながらも素直に従う事にした。

壁に付けてある客用ではないテーブルの下に置いてあるビールケースを慣れた手付きでよいしょと持ち上げてそのまま扉へ向かう。

と…その途中、何の気なく黒の集団の一点に視線が泳ぎ、男と目が合った。

「……」

何故だろう、途端背中に氷を落とされたようにゾクリと身体の芯が震えた。そんな経験もまた初めてで。

その男は店を見渡せる一番奥の席に座り、明らかに他の男達とは空気が違う。

モコモコした白い帽子の影から微かに見えた黄金色の瞳からは、それだけで人を殺せそうな鋭さと冷たさが刹那でも感じ取れた。

右隣には同じく鋭い視線を刺す防寒帽を被る男、左隣にはキャスケット帽を被る男。このキャスケット帽の男だけは雰囲気が軽く、此方に手を振っている。

何かヤバそうな集団…

すぐに目を逸らしたがあのぞくりとした感覚が脳裏に焼き付いて離れない。ついでに傍らに立て掛けてあった長い刀に尚更恐ろしさを煽られて「そういえば何で白クマもいた?」とかそんな一般的な疑問を持つ余裕すらなかった。

おじさん大丈夫かな…振り返るもケイおじさんはただ顎で「行け」と煽るだけ。後ろ髪を引かれながらも、店を出る名無しさんの足は自然と速度を上げていた。



その後も他の店に立ち寄り食材を買い足してバッグに詰め込みずしりと肩に掛ける。重いビールケースは何度も持ち替えながらとにかく買物を全て済ませ、棒の足を奮い立たせてやっと帰路に着く。

気付けば空はオレンジを駆逐して濃い藍色を広げ始めていた。進行方向の低い空には眩しい一番星。変わらぬ気候の島で唯一、いわばカレンダーの役割を果たすのはこの夜空の星の位置であろう。

あぁ、あれからもう一年が過ぎた
あぁ、また次まで頑張ろう…

普段は中々見る事のない星空だったが、たまたま見上げた天上が夕陽よりも眩しく思えて、名無しさんは重い荷物を地面に置き宿まで後少しの所で暫し足を止めた。

イチョウと夕陽に染まる色で有名なこの島の夜空は、それに劣らぬくらいこんなにも美しいんだ。今宵は無月だが、明るい満月に照らされた山々は影も孕んでさぞ神々しいだろう。

「さて、行くか…」

ぼんやりとそんな感慨に浸っていた名無しさんはまたバッグを肩に掛けてビールケースを持ち上げようとした。

その時

「…重くね?家まで運んでやるよ。」

突然背後から掛かった声に大きく肩が揺れる。振り返ると男が一人、ニシシと笑いながら立っていた。

黒い服に黒いキャスケット帽のその人は固まる名無しさんの手からひょいとビールケースを奪うと肩に担いで先を歩き出してしまった。

「ちょっ…」

「どこ?家…こっち?」

この人、そういえばさっきケイおじさんの店にいた団体客で名無しさんに手を振っていた人だ。更によく見れば、着ている服は喪服ではなく黒いつなぎだ。

てか…ずっと付いてきてた?

「結構ですからっ、返して下さいっ…」

「何で…?」

「何でって…、何でもですよ!」

後ろから必死に追うも大股で歩く彼は一向に足を止めない。それどころか楽しそうに話し続ける。

「あんた何か商売してんの?飯屋?飲み屋?俺、今から行ってもいい?」

「は、はい…?!」

「いや、ほら…アレだ。俺、あんたと仲良くなりてぇな〜って。」

宿の切り盛りに精一杯で年頃の女の割りには色気も洒落っ気もない名無しさんだったが、整った顔立ちとバランスのいいスタイルのせいかこういう事は今までも何度かあった。いわゆるナンパというやつだ。

経験則からするにこの手の男は大概が身体目当てでろくでもない。ましてや家の手前で声を掛けてくるなんて、最後まで付いて来られたら何をされるか分かったもんじゃない。

人質に取られたビールケースを早く奪還しなければ…名無しさんは男の前に回り込もうとダッシュの第一歩を踏んだ。

が…

「ぶぁ…っ!!」

その一歩目で足元にある石に躓き盛大にコケた。倒れた勢いで肩に掛けていた買い物袋からは中身が飛び出し、道端に割れた卵が無残に散乱する。

「げっ…、大丈夫か…?!」

名無しさんの寸劇に気付いた彼は急いで駆け寄ると、捲れ上がったスカートから覗く生足に一瞬気を取られつつも優しい手付きで上体を起こしてくれた。

「痛ったぁ…」

「悪ぃ、俺のせいだよな…」

「あぁぁ…卵っ、卵がっ…」

「悪ぃ、弁償する…てかホッペ、擦りむいてる…見せろ。」

手を突いたのに顔からいくなんて一体どういう転び方をしたんだ私…言われて触ると確かに頬に痛みが刺す。

男はまじまじと名無しさんの頬の傷を検分すると「ハンカチあるか?」と真顔で聞いてきた。近過ぎる距離に口から飛び出しそうな心臓を何とか呑みつつ彼女はおとなしくハンカチを渡した。

「砂、落とす。ちょっと痛ぇかも…」

言って軽く頬を擦られ、途端顔が歪む。痛い…でもどうしてかこの時、目を閉じて彼に全てを任せる事にした。

「奥まで入ってねぇからすぐ終わる。」

「……」

「よしとっ、いいぞ。」

「あ、ありがと…」

恐る恐る目を開ければ彼は少年みたいなキラキラとした瞳でまだ名無しさんの顔を覗き込んでいる。パッと見の印象からは外れた無害な瞳。真近に絡まるその視線に何故か身動きが取れない。

すっかり暮れた空の下、地べたに座り込んだ二人は時計の針が止まったかの様に見つめ合った。そして不意に彼の視線が名無しさんの唇に落ちる。と同時に…

「ん…っ」

男はそこを唇で塞いだ。すると抗うより先に名無しさんに纏わり付いてきたのは…

甘い、柔らかい、何より…優しい

湧き上がる不思議な感情が彼女を未知の世界へと引き込む。気付けば彼に誘われるがままに口内への侵入を許し、そして艶やかに舌を絡め取られていた。

身体には触れていない。
唇だけの溶ける様な長い長い交わり。

「…っ」

暫くの後にゆっくりと解放されて、そこで初めて彼女は我に返る。

何してんの私、こんな知らない人と
初めてのキスを…


パチンっ!!


無意識に男を殴っていた。恥ずかしくて悔しくて顔を真っ赤にしながら。だってそうでもしなければこの甘い余韻を振り払う事が出来そうになくて。でも女の平手なんて痛くも痒くもないだろう彼はただ目を細めて微笑んでいた。

逃げなきゃ…この人はきっと凄い女慣れしてて、このまま私を弄ぶ気なんだ。

「さよならっ…!」

急いで腕をすり抜けて鞄を拾い上げた名無しさんは道端に放置されるビールケースに走り出した。男は帽子を一度脱いでボサボサと髪を掻くと立ち上がり、また被り直しながら口を開いた。

「もしかしてキス…初めてだった?」

紡がれた言葉に振り返りそうになる反射を抑え、ガチャガチャと派手にぶつかる瓶の音を立てながら立ち去っていく名無しさんを彼はそれ以上追う事はしなかった。


「クク…随分と紳士だなシャチ、何で逃がした」


するとそこに、ずっと静観していたのだろう仲間達がぞろぞろと集まる。どうせ野次られる…シャチは面倒臭そうに顔を顰めた。

「この先にある宿を一人で経営してるらしい。確かにそこそこの女だが、遊びじゃねぇならやめとけ…後々面倒だ」

「そうだな…いくら入れ込んだところで俺達は所詮海賊だ。巧くいったとしてもまた海に出る…最後に捨てられて傷付くのはあの女だ。」

おいおい…珍しく真っ当な忠告?

長刀を担いだローや防寒帽を被るペンギンは素っ気なくそう言い捨てると踵を返した。その向こうでは「どこまでいくか」の賭けをしていた相変わらず馬鹿なクルー達が歩きながら面白可笑しく金のやり取りをしている。

「……」

一人その場に止まったシャチは、見上げた夜空にふぅっ…と息を一つ吐いた。

「そんな事、分かってる…」

だから追わなかったんだよ

「俺はただ…名前を知りてぇだけだ…」

風に乗って耳に届いたその言葉を
…ベポは聞かなかった事にした

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