シャチ中編

□黄昏に暮れて #3
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その晩、冷めかけた残り物のチキンをあっという間に平らげた三人の男達は、目玉焼きも二度追加して酒の肴に突つきながら、あーだこーだと夜遅くまで名無しさんの宿の食堂を占拠していた。

よく喋るシャチ、そこに棘を刺すペンギン、そして黙々と酒を喉に流しながら最後を上手く収めるロー。

「ハハ…」

見ていて楽しかった。一見恐そうな彼らが、こんなしがない小さな宿でまるで我が家にいるかの様に屈託の無い笑みを浮かべている事が名無しさんは凄い嬉しくて、ついついつられて顔が綻ぶ。

だが暫くして頃合いを見計らったのか、ローとペンギンは「寝る」とだけ言い残すと先に二階の客室へ引き上げた。ほろ酔い加減のシャチは上機嫌で名無しさんと一緒に皿やグラスを片付け始める。

「名無しさんは一人でこの宿やってんだろ…?もう長ぇのか?」

「え…?」

一人になって…

「うん、五年と四ヶ月になる。」

ガチャガチャと泡まみれの皿を踊らせながら名無しさんは小さく笑った。ちらりと窺った彼女の綺麗な横顔は淋しげで、でもどこか冷めた複雑さを孕む。

「そっか…」

昨日出会ったばかりの彼女。そもそものきっかけはズバリ、顔と身体が俺ゾーンのドストライクだったから。んで勢いで酒場から追い掛けて、捕まえて、遊ぶつもりでキスをして。

だけどそんな色事に慣れてるシャチがその時味わったのは、簡単に翻弄され蕩揺いながらも懸命に自身を受け入れようとする不器用で甘酸っぱいキスだった。

それはだからこそ今までにない至極の味で…

うわぁ…このコ、白い

呑まれるは自分色に染めたいという男の単純な願望。船長やペンギンの揶揄すら心頭滅却に掻き消す俺はそう、恋の荒波に溺れる海のギャング…シャチだ。

「シャチさん達は船で旅をしてるんでしょ?私、この島から出た事ないから知らないけど、世界には春とか夏とか冬とか…色んな季節があるんですよね。楽しそう。」

「お…?おぉ…」

ちなみにギャング…もとい海賊だという事を隠している訳ではない。「昨日西側の港に着いた」と言ったら名無しさんが彼らをただの旅人と勝手に早合点しただけだ。

「あぁ、俺らの故郷は北の海だから一年中雪だ。夏島はどこも暑くて似たようなもんだな。春島は桜が綺麗で…けど、この島もイチョウが凄ぇよな。」

「ハハ、逆に言えばそれしかないんですけどね。」

「どこもそんなもんだろ。俺らんとこも雪がなかったらただの更地だ。」

シャチの桃色な感情とは裏腹に、不思議と会話は爽やかに弾む。肩が微かに触れる距離に違和感もない。洗い終わった皿を二人で拭きながら紡ぐたわいのない話は、楽しくて途切れる事はなかった。

しかしそんな中、不意に遠くを見た名無しさんがぼそりと呟いた。

「私もこの宿畳んだら、どっか旅にでも出ようかなぁ…あぁ、でもそんなお金もないか。」

「あ…?何で宿…」

カランカラン…

と、そこに心なし控え目に開いた扉からブラウンさんとエミリーが宿に入ってきた。壁に掛かる時計を見遣れば既に日付けが変わっていた。

「おかえりなさいっ、お仕事お疲れ様でした。」

濡れた手をエプロンの裾で拭いながら彼女はシャチの横をすり抜けて急いで二人を出迎える。せっかく盛り上がってたのに…面白くねぇ。

「……」

だが戻って来た二人の客は目の前にいる名無しさんを透かして、怪訝に頬を膨らませるシャチを見据えている。

「あ…えっと、彼は…」

そういえば入れ違いだったからブラウンさん達はまだシャチ達の事を知らないんだ。紹介しようとシャチを振り向く。

と…

「…あぁ、俺?…俺はたまにココ手伝いに来るシャチだ、よろしく。あんたら、名無しさんがせっかく作った飯も食わずにこんな時間までお仕事とは随分とご多忙なこって。どんな大層な稼業か知らねぇが、街で仕事があんなら最初っから街の宿に泊まれば良かったんじゃねぇか?」

は…

シャチ以外の人間は滔々と滑り出る彼の発言にただその場に立ち尽くす。

「名無しさんはココで女一人なんだ。だからいつ帰って来るか分かんねぇ客の為に一晩中宿の鍵開けてたら物騒だろ。ローカルの人間を敬う気遣いとモラルも旅の必需品だ、違ぇか。」

…海賊の俺が言うのも何だけど

「ちょっと、シャチさんっ…??」

「まぁ、俺は用心棒も兼ねてっから、もしこの宿に変な輩が来たら即ぶっ殺すけどな。」

「シャチさん…っ!」

執り成そうにもやはりこの人は止まらない。顎を上げ、胸の前で腕を組み、どう見ても喧嘩を売る態だ。

「す、すいません…あの…」

彼を諦めてブラウンさん達に向き直り頭を下げた。これで本当に出て行かれて困るのは名無しさんなのだから。

するとブラウンさんは当惑顔で笑いながら「いえ、彼の仰る通りです…」と謝ってきた。

「こんな事は普段滅多にないのですが今日は初日だったもので色々と…明日からは気を付けますね。」

「そんなっ、どうぞ気になさらず…」

名無しさんがもう一度頭を下げると二人は二階の客室に戻ろうと歩を進めた。

が、しかしそこでまた…

「あぁ、それからそっちのあんた…」

シャチがまた口を開いた。今度はエミリー宛てだ。

「街の案内が必要なら次から俺に言ってくれ。女買いてぇ時もな…」

聞いてエミリーはあからさまに顔を顰めたが何も言わずにその場を立ち去った。

二人が階段を上りきるのを見送った名無しさんはするとがばりっ…シャチを振り返り、思いっきり睨み付ける。

「一体どういうつもり…?!」

「あ…え…?」

彼女の凄い剣幕にたじろぎ、シャチは一歩後退った。

「うちのお客さんにあんな態度取るなんてっ…余計な事しないでっ!」

「けどよ、あいつら何か胡散臭くて…」

だってあの野郎、昼間名無しさんと手ぇ繋いでたし…要するにやっかみが大半。

「それはシャチさんの勝手な分別でしょ?!次またあんな事言ったら、貴方のほうこそ出てってもらいますからっ!」

プンと膨れた彼女は「おやすみなさい!」と言葉を捨て置いてそのまま奥の自室の扉の向こうに消えた。

「怒らせ、ちまった…」

裏目に出た言動。せっかくさっきまでいい雰囲気だったのに…トボトボと部屋に戻ったシャチは膝を抱え、窓際に飾られる小さな花を人差し指で突つきながら夜通し一人ごちていた。



翌朝、鳥達ののどかな囀りに耳を擽られ目覚めた名無しさんは支度を済ませてキッチンへ入る。床に置いてある袋の大量の卵に目が行き、思わず笑みが漏れた。

「卵…多過ぎだよね。」

朝食の献立はパンとサラダ、野菜スープにオムレツとしよう。

トントントントン…

軽快に響く包丁のリズム。
一通りの下準備を終わらせてから庭の花に撒くキラキラと光る水。

名無しさんは朝のこの時間が一番好きだ。何故ならまだ全てが真っさらで心が軽い。

今日よりも明日が恐い彼女は今日もまた昨日になる今日を消化する。


「はよ…」


ん…?力無く掛かった声に目を遣ればボサボサ頭のシャチが庭に面した窓から顔を出していた。怠そうに身体を枠に凭らせてまだ相当に眠そうだ。

「おはようございます。早いですね…いつもこれくらいに起きてるんですか?」

「いや、あんま寝れなくて…その、アレだ…昨日の事、謝りたくてよ…」

「昨日の事?」

「すいませんでした…反省してます…あんな事もうしません…ごめんなさい。」

その拗ねた子供みたいに口を尖らせながらの謝罪が何だか妙に可愛くて、名無しさんは思わず吹き出してしまった。笑われた彼は更に口を尖らす。

「何がおかしい…」

「ハハっ、だってシャチさんて見た目恐そうなのに、こうやって喋ると全然違うから…」

「んな事どうでもいいっ。てか許してくれますかっ…もう怒ってませんかっ…」

「勿論、怒ってませんよ。」

言われてシャチの顔がパッと明るくなった。しかし次の言葉を口にした名無しさんのあまりにも無感情な瞳を見た途端…彼は砂を噛んだ。


…だって昨日は、今日じゃないでしょ?




名無しさんは午後から役所に行くと言って昼食の後、出掛けていった。船長は夕方まで船に戻り、その間シャチとペンギンはまた当てもなく街をフラつく。

「美味いか…」

「…何で俺ばっか。」

今日も通り掛かった土産屋で同じおばちゃんから押し付けられた試食のイチョウサブレをパクつくシャチは朝からずっと浮かない顔だ。

「名無しさんよりあのおばちゃんのほうがお前に脈ありなんじゃないか?」

「それ、全っっ然笑えねぇ。」

甘ったるさを無理矢理飲み込み、取り敢えず二人は時間を潰そうと一軒のカフェに足を踏み入れる事にした。

時間的に混み合っていたが窓際の席がちょうど空いたのでそこに案内された。全面ガラス張りで、賑やかに人が行き交う表通りを一望出来る。

カフェの目の前はデカい高級ホテル。まだ出来たばかりだろう、外観の装飾には傷一つなくそして何とも豪勢な造りだ。

「随分と流行ってんな…」

ぼんやり眺めれば、そのホテルは人の出入りが途切れない。名無しさんの小さな宿なんて敵う筈もないだろうに。

「ふん…俺はあんな金儲けしか脳がねぇホテルより、名無しさんんとこみたいなこじんまりした宿のほうがいい…」

「フフ…あの土産屋のおばちゃんがオーナーでもそう言えるか?」

「お前、次そのネタ振ったらマジグーパンかます…」

シャチは不貞腐れて店内側に顔を向けた。あぁそうだな…例え20年後の名無しさんがあんなおっさんみたいなおばちゃんになっていたとしても俺は変わらず彼女を求め続けるだろう。だって俺は一途に恋する海賊・シャチだ。

「そういえば名無しさんって何かよ…」

「おい、あれ…」

「あ…?」

今朝の名無しさんの様子を話そうとしたその時、ペンギンの目が鋭く光った。視線の先を追うと…

「あれ、あいつ…」

ドアマンではなくスーツ姿の従業員数人に出迎えられながら、慣れた足取りで豪勢なホテルに入っていくその人物を見間違える訳がない。だってそいつは昨日、シャチがやっかみついでに絡んだ男だ。

名は確か…エミリー。

「何だあいつ…どういうこった…」

唸る様な低い声はシャチが戦闘スイッチをONにした態。ガタリと立ち上がり店を出ようと足を踏み出した彼をしかしペンギンが「行くな」と即座に制した。

「何で止める…あいつは名無しさんんとこの客だぞ。なのに何であのホテルに出入りしてんだ…場合によっちゃ俺はヤる…」

「お前は顔が知れてるだろ。俺が行くからお前はおとなしく此処で待ってろ。」

言って代わりにペンギンが店を出て行った。立ったままのシャチが握る拳には皮膚が裂ける程に爪が食い込む。

…あいつら胡散臭い

あながち外れてなかった心象。どうやら「今日」という日は今日から、明日へと持ち越される事になりそうだ。

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