シャチ中編
□黄昏に暮れて #4
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「…帳簿を拝見しましても、ここ数年の純利はごくわずかですよね。失礼ですが今後良くなる見込みもないかと…」
「そんな…それで今すぐ払えと言われても…もう少しだけ待ってもらえませんかっ、来週中には一部払いますからっ…」
「しかし一年も税金を滞納されていては此方としても何かしら対処せざるを得ないんですよ…親御さんから継いだ宿ですから手放したくないという気持ちはよく分かりますが、しかしこのままの状態が続く様であれば、差し押さえという手段も有り得ますので。」
「……」
「取り返しが付かなくなる前によかったら是非もう一度、此方もご検討下さい。貴方はまだお若いですし、決して悪い条件ではありません…」
役所を出た名無しさんの足取りは重かった。今までは何かと情を掛けてくれていた役人が、最近手のひらを返した様に滞納している税金の払いを催促してくるのだ。
同情の意を含む面持ちで去り際渡されたのは、前々から持ち掛けられている件。宿を畳み、土地の売却を促す書類だ。
その役人曰く、名無しさんの宿がある島の西側一帯にレジャー施設の新設計画が持ち上がっており、既に近隣の小さな宿は次々と土地をその事業主へ売り渡しているらしい。
…『施設で得た利益は土地を提供して下さった皆様に還元します。更に好条件での施設内任用を保障しますので、今後の生活は今まで以上に安定します。』
喰い付けば楽だろうその話にどこか違和感を削げず生返事ばかりを繰り返していた結果がこれだ。どうやら名無しさんが営む小さな宿はこの島の水面下で大きなお荷物となりつつある。
「やっぱ…もう無理か。」
親の背中を見て覚えた経営術で必死に金のやり繰りをしてきた名無しさん。
専門的な知識のないそんな彼女はそもそも税金の払いを盾に土地の売却を促す役人の言動全てがおかしいである事を知らず、そして悲しいかなそんな弱い立場の人間に付け入る輩がこの世には五万といるという浮世のからくりを解せる程の見聞も、まだ持ち合わせてはいなかった。
腕時計を見れば…
「二時…」
そのまま宿に戻る気にはなれず、名無しさんはふらりとケイおじさんの店に寄った。折れそうな時、おじさんの元気な顔を見るだけで少しは救われる。
カラリン…!
食堂も兼ねる酒場はちょうど客足が減る時間帯。見ればケイおじさんはカウンターの中で昼の嵐の後片付けに追われていた。
「おぉ?名無しさんちゃん珍しいなぁ、こんな時間にっ。買い出しにはまだ早いだろ、どした?」
「うん、ちょっとね。」
笑いながらカウンター席に腰掛けるも、椅子の下でブラブラと足を揺らしただ店内を見遣る彼女の様子にケイおじさんはゴトリ…「一杯くらい飲んでも仕事に差し支えないだろ、奢りだ。」と、グラスビールを差し出してきた。
「ハハっ、ありがと。いただきます。」
シュワシュワと昇る気泡がてっぺんの白い泡に吸い込まれるグラスの具合い。それを半分喉に流し込んでプハーっと息を吐けば心なし気分も弾けた。
「ふぅ…美味しい。」
こんな時のケイおじさんは敢えて何も聞いてこない。かといって彼女が何か言い出すのを待っている訳でもない。いつも通りに仕事をし、そしていつもの歌を口ずさむのだ。
頬杖を突いてぼんやり…グラスの側面を滑る水滴を眺めながら耳に入ってくるその歌は、自分の親も昔よく歌っていた古い古いラブソング。
君を想うと泣きたくなるんだ
苦しくて、切なくて
それでも僕はきっとまた
明日も君を想うだろう
さあ、僕を選んで
涙の海を越えるまで
僕がずっと…君の船を漕ぎ続けるから
子供の頃には意味がよく分からなかった歌詞。今だって、誰かをそんな風に想う気持ちを名無しさんが理解出来ている訳ではないが。
だけど心地よいそのメロディは、誰が歌っても優しい歌となって癒されて、聴く度いつも彼女は目を閉じ憂愁に浸る。
それはまるで、明日を誘う子守り唄
一番を歌い終わったケイおじさんは背を向けた。グラスを空けた名無しさんはそれをきっかけにそっと立ち上がり、苦い書類の入る鞄を肩に掛けた。
「ご馳走様、ケイおじさん。そろそろ行くね。」
と、いつもならそこで威勢良く手を振って見送るケイおじさんが今日は「名無しさんちゃん…」と呼び止めてくると、優しく目を細めながらこう言った。
「君のお父さんもお母さんもね、名無しさんちゃんには幸せになってもらいたいといつも空から願ってる。」
「…へ?」
虚を突かれ立ち止まり、無防備に間の抜けた顔になった名無しさん。
その顔はケイおじさんにとって、いつまでも幼い面影を残しそしていつまでもそのままでいて欲しいと願って止まない愛おしい顔。
だが時計の針は止まらない。この子はもう子供のままでいられない。現に今、知らなくていい筈の大人の塩水を舐めている。
「俺はね、君のお父さんとお母さんから頼まれてるんだよ。もし名無しさんちゃんが宿に固執して自分の人生を蔑する様ならば、どうか自由にさせてあげて欲しいってよ…」
「ケイおじさん…?」
「名無しさんちゃんのせいじゃない、名無しさんちゃんは何も悪くない。時代が変わっちまったんだ。一見平和なこの島は今、余所から来た暴利を貪る輩共に喰われつつある。だから例えどんなに君が踏ん張ったところで四面楚歌でしかない。」
「……」
「辛いなら宿を手放しなさい。その後は…うちの看板娘にでもなればいいさ。」
言われて喉の奥が締め付けられた。
…分かってるよ、そんな事
でも本当は、親代わりのケイおじさんにそう言ってもらえる事をずっと待っていたのかもしれない諦めの言葉。
背負う現実を下ろすか否か…名無しさんは強く彼を見据え、これ以上なく頑張って口角を上げた。
「うん。」
「……」
「その時は、よろしくねっ。」
何でもない風を装い店を出た自分は
果たして上手に笑えていただろうか
ー
カフェを出てからのシャチとペンギンは名無しさんの宿ではなく船に向かい、船長室で中心街での一件をローに説明していた。
「エミリーという男はあのデカいグロラスホテルの次期経営者です。元々は余所者だが、近年栄えるこの島の観光商業に目を付けて三年程前から軒並みホテルを中心街に建て、島の活況に随分と貢献しているようです。」
あの短時間でどうやってそこまで調べたんだ…シャチには出来ない偉業である。
「しかしどうやらそれだけじゃない。裏では地上げ、役人の買収、果てはヒューマンショップまで…この島の裏も手掌に転がす、とてもじゃないが堅気とは言い難い輩ですね。」
「で…お前はどうしたいんだ」
ペンギンの話を黙と聞いていたローは正直自分達が首を突っ込む事でもないだろうと思いつつしかしその反面、一人熱く滾るこの男が面白くて仕方がない。
「奴らの狙いは鼻から名無しさんんとこの土地なんすよっ…いや、もしかしたら名無しさんも手練に掛けるつもりかもしんねぇ…いい奴ぶって近付いてっ…手っ…手ぇ繋いだりっ…ぐっ、うぉぉぉぉおっっ!!」
…手を繋ぐどころか、出会ったその日に濃厚なキスをかました奴が何を言う。
「…少し落ち着け。」
「うっせぇ…!これが落ち着いてられっかぁぁぁぁっ…!!」
天に唸るシャチはよく見れば肩から蒸気を上げている。今の彼ならパシフィスタのビームも難なく弾き返せるであろう。
「シャチ、お前は先に宿に戻れ」
「は…?けどっ…」
「まだ…動くなよ」
ペンギンだけを指で呼び込み背を向けたロー。シャチは捨てる様に言葉を吐いてから、名無しさんの宿へ駆け出した。
「船長…俺、マジっすから…」
ー
道すがら買い込んだ食材を両の手に抱え宿への帰路に着いた名無しさんは暮れ掛けた正面の空に光る一番星を今日も見つけた。
焦点をそこに集中させると周りの山がぼやけて滲む。イチョウの黄色が夕焼けの橙の境界を手放せば、一点の金色が眩む程に一際引き立つ。
この道を私はあと何回歩くのだろう…
いや、そんな事は今いる客を見送ってから考えるとして、とにかく早く帰ってご飯を作ろう。重たい今日を振り払い彼女は足早に歩いた。
「持ちましょうか…?」
「ひゃ…っ」
そこに突然降った声。刹那に名無しさんの脳裏を掠めたのはあの日のシャチだったが、しかしいつの間にかすぐそこにいたその人は、スーツを着た、品のいい…
「ブ、ブラウンさん…」
「すいません、驚かせてしまいましたね。ちょうど貴方が前を歩いているのが見えたので。」
言いつつ荷物を名無しさんの腕から取り上げてふわりと微笑む。
「そういえば、私達の他にもう一組客がいるそうで…観光客ですか?」
隣を歩く彼の口調は穏やかながらも名無しさんを見下ろす目がどこか冷たい。名無しさんはふと視線を逃してから答える。
「はい、旅の人達です。」
「そうですか。昨日の彼は?」
「はい?」
「あの威勢のいい彼ですよ。」
あぁ…シャチの事か。
「えっと…彼は…」
…『ココを手伝いに来るシャチだ』
彼も客、なんだけど…
「女一人は確かに物騒ですからね…ところで噂によるとあの一帯は将来的に開拓されるそうですが、名無しさんさんはどうされるおつもりなんですか?」
「え?あの、何故…その話を…」
思わず足を止めた名無しさんを数歩先から振り返ったブラウンさんは笑みを貼ったまま淡と言葉を続けた。
「名無しさんさん?大きな力には逆らわないほうがいいですよ。宿に火を点けられる前に是非、聡しい決断をお勧めします。これは助言ではなく…忠告です。」
「……」
「それに、貴方自身も商品として嬲り物にされるのは…嫌ですよね?」
ドサリ…!
ブラウンさんがわざと手を滑らせて食材の入る袋を地面に落とした。中にある何かがぐしゃりと潰れる音がした。名無しさんは状況を呑み込めずただ立ち尽くす。
「簡単な事です。今日渡された書類にサインをして、グロラスホテルまでお持ち頂ければいいんですから。」
「……」
「困った事に、エミリーさんが貴方を気に入られた様でして。なので出来れば手荒なマネはしたくないんです。」
そう言って彼は宿ではなく街のほうへと歩き出した。そのすれ違いざま耳元に囁かれた言葉に彼女は…陥落する。
「貴方の大好きなケイおじさんには…いつまでも元気でいて欲しいですよね?」
見上げた星はそれでも美しくて
名無しさんは静かに…睨み付けた
ー
宿に戻るとシャチが食堂の椅子にだらしなく座っていた。どうやらずっと名無しさんの帰りを待っていた様だ。
「おぉ、心配したんだぞ…今捜しにいこうかと思ってたとこだ。」
「…ごめんなさい。あれ?ローさんとペンギンさんは?」
今日の出来事を悟られたくなくてさりげなく顔を背けながら彼女はカウンターに入り、ゴソゴソと荷物を整理し始めた。さっき潰れていたのはトマトだった。
「飯までには戻ってくる。てか、あの二人は今日も仕事か…?」
「……」
「名無しさん…?」
シャチもシャチで船長からまだ動くなと言われている以上、何も知らない振りをして彼女に接する。内心はぶんちゃかとはらわたが煮えくり返っているが。
しかし目も合わさない、そして笑わない名無しさんを見兼ねてつい口走った。
「奴らに何かされたか…」
「……」
「おい、何かされたのか…」
椅子から勢いよく立ち上がって彼女の肩を掴む。見ればその顔は酷く疲れきっていて今にも泣き出しそうだった。
「なぁ、名無しさん…」
駄目だ…抑えらんねぇ
「もし泣きてぇなら、俺の胸で泣け…」
「…っ」
「涙は全部…俺が拭いてやっから。」
途端堰を切った様に名無しさんの目からポロリと零れた大粒の涙をシャチは指で拭った。次に落ちる二つ目の涙は唇に吸い込んだ。
そしてそのまま…
「っ…んっ…」
熱く重ねた唇は以前のキスより激しくて、身体をなぞるごつい手は彼女を誘い逃がさない。
「ん…、あっ…っ」
撫でられた腰に漏れ出た甘い声を合図に白い首筋を舐め上げてシャチは彼女のシャツのボタンに手を掛けた。まだ男を知らない名無しさんの綺麗な胸が露わになる。
「やっ…、っ…」
ピンク色の乳首を舌で転がし、少し強めに吸い上げれば、彼女は素直に身体を跳ねらせ喉を反らした。
「名無しさん……、」
初めて見る名無しさんの妖艶な姿に楚々られて強い欲望が疼く。しかしシャチはそこで突然行為をやめると、はだける彼女のシャツのボタンをゆっくりとまた留め直しながら熱く潤む瞳を向けた。
「悪ぃ…こんな状況に付け込むなんて俺、最低だな…」
「シャチ、さん…?」
「それに今あんたを抱いたら、優しくなんか出来そうにねぇ…」
「……」
「本当、ゴメンな…」
飯、作るんだろ?手伝う…名無しさんの身なりを整えた彼は流しの蛇口を捻ると、自分を戒めるかの様にバシャバシャと冷水で顔を洗い流した。
「……」
バクバクする心臓を手で押さえる名無しさんはその時…何故かあの古いラブソングを思い出していた。