シャチ中編

□黄昏に暮れて #6
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服を買いに行くと突如言い出したシャチのただならぬ気圧に押され自室に入った名無しさんはエミリーの匂いが微かに残るシャツを脱ぎそのままゴミ箱へ押し込んだ。スカートも。

もしあのままシャチが来てくれなかったら?そう思うと今更ながらに総毛立つ。そして自分の非力さと不甲斐なさに無性に腹が立ったりもした。

何よりこれで収束した訳ではない。例えシャチが書類を破り捨てようとも、この宿を手放す事に変わりはない。だってそうしなければ、あの人達はケイおじさんに危害を加えるつもりなのだから。

いや、そもそもそれがなくとも最初からこの宿は手放すつもりだった…

「……」

曇天の様な暗澹たる気分に陥った名無しさんは目を据え唇を噛み、自室にも飾る小さな白い花をぐしゃりと握り潰す。悲しそうな花弁がはらはらと床に散るも、それを無視する事には慣れていた。



着替えを済ませて食堂に戻れば、まだカウンターの中でぼんやりと俯くシャチがいた。気付いた彼はゆっくりと名無しさんを振り返ると、さっきの事もあってか少しぎこちなく笑う。

「あれ…買物、行かねぇのか…?」

彼女はいつものエプロン姿だった。すなわち改まって街へ出掛ける気はないという意思表示か。互いの胸底を窺う時間だけがやたらと長い。

「ごめんなさい、やっぱり今日は…。また今度でもいいですか…?」

「あ、あぁ…そうだよな…」

…当たり前だ。男に押し倒された直後に呑気に買物に出掛ける女なんかいねぇだろ馬鹿か俺…

「でもちょっとケイおじさんの所にお酒だけ買いに行ってくるんで…すいませんけどシャチさんは、宿番しててもらっていいですか…?」

「一人で…大丈夫か?」

「うん平気。すぐ戻ります。」

このまま二人きりでいるのは確かにちょっとキツかった。互いに熱を冷ます…というか気持ちを整理する時間を持ったほうがいいのかもしれない。

あの酒場ならもう奴がいる…

「んなら…気ぃつけろよ。」

シャチは黙って名無しさんを見送る事にした。



客が疎らな午後四時、店のカウンター内ではいつもと同じく夜の仕込みを始めるケイおじさんと、その隣でガチャガチャと乱雑に皿を洗う見慣れない男が一人。

「なぁ、オヤジよぉ…俺、こういう地味な仕事嫌いなんだけど。」

「あぁ?何言ってんだ…??お前が雇って欲しいってさっき頭下げてきたんだろが?!新入りはまず皿洗いだ!」

「はぁぁぁぁ…」

「はぁぁ…じゃねぇっ。あからさまな溜息を人前で、ましてや仕事中にすんじゃねぇ!その咥えタバコもやめろっ!」

「へぇーい。」

ダラダラと明らかにやる気のない態で仕事をするターバン頭のバンダナという男に一瞥をくわせたケイおじさんもわざと大きな溜息を吐いた。

全く、最近の若い連中ってのは何かが欠落している…Tシャツから伸びる腕は刺青だらけ、どう見てもゴロツキだろうこの男は昼間店を訪れるなり「此処で働らかせてくれ…」と言ってきたのだ。しかも不本意そうに。それが不本意で仕方がない。

「そうだ、オヤジ…」

「おい小僧、オヤジじゃねぇ、ここで働きてぇならこれから俺の事はマスターと呼べ。」

「俺ももう小僧って歳でもねぇよ。それよかマスターよぉ…」

フィルターぎりぎりまで吸い上げたタバコを客用の灰皿に押し潰したバンダナは、今度は皿の泡を流水に滑らせながらおもむろにこう言い出した。

「島の端で宿やってる名無しさんっていう女ってよ、あんたが親代わりなんだろ?」

「あ…?何で最近この島に流れ着いたって言ってるお前が名無しさんちゃんを知ってんだ…」

名無しさんの名を口にした途端、ケイおじさんの表情が険を孕んだ。ちょっと唐突過ぎたか?…しかしバンダナは顔色を変えずに続ける。

「いや直接は知らねぇよ。けどこの前、酒場の女達と飲んでた時に、いい宿知らねぇかって聞いたらよ、そいつら揃いも揃って"名無しさんの宿だけはやめときな"って言っててよ。」

「……」

「"あのコは人殺しだ。あの宿はお化けが出るよ"…て。それってどういうこった??」

彼は敢えて顔を下げ手元に視線を落としていたが視界の端でオヤジが息を呑んだ事実を心にメモる。

停泊中も基本船に籠って整備ばかりに精を出すバンダナは実際この島の酒場で女にそう言われた訳でもなんでもない。ましてや名無しさんの機微など何も知らない。

平常ならばこういう繊細な頭脳戦はペンギンの仕事であって、大雑把なバンダナには決して回ってこないのだがしかし、この店で顔が割れていないのを唯一の理由に突如ローから潜入調査なんぞを一任されているのだ。

「訳あり女が営む宿…聞いたら男は逆にそそられるよなぁ、普通。」

「おい…バンダナ…」

締まりない口調のまま紡いだ言葉にすると、まな板の上で鶏の生肉を切りそれを下味のタレが入る大きなステンレスのボールに次々と投げ込むケイおじさんは手を止めてバンダナに鋭い目を遣る。

「無駄に長く生きてるだけの人生の先輩として、これだけは言っとくぞ…」

「…あ?」

腹を据えろ…まるでそう言われた様な気がして、バンダナは思わず腹筋に力を入れた。

「安い酒場の女の話ってのは8割が無意味でくだらねぇ絵空だ。それから…」

「あぁ…」

「人間生きてりゃいい事より嫌な事や悲しい事のほうが多い。だかそれはチャンスだ…心から泣いて後悔してそれでも何糞と踏ん張ってまた前を向く経験は、いつか来るだろうもっと大きな不穏を予見して回避する術を得る賢さに繋がる。」

「……」

「だがそういう忘れちゃならねぇ大事なものまで忘れちまう、忘れた事すら忘れちまう…記憶が勝手に都合良く更新されちまう人間がこの世には稀にいる。お前…そういう人間に会った事があるか?そういう人間の辛さが…この1mmでも解せるか?」

滑る様にそう言いながら肉の脂に塗れた親指と人差し指が雑に示した隙間は1mm以下だった。ついでに何だ、このビリビリくるオヤジの威圧感は…

「使い捨ての毎日なんざ虚しい。だがあの子はあの日から無意識の内にそうやって生きてんだ。そうしないと生きていけないんだよ…ならばそれも動物の本能の括りだ。防衛本能ってやつだろ…」

何も知らない輩が興味本位で名無しさんちゃんの話をするな…そう最後に声を絞り出してまたまな板の上の肉を削ぐオヤジの顔は、何とも苦く憤っていて。

「…だよな。」

普段は鋼の様な図太い神経のバンダナだったが珍しくそれ以上をやめ閉口した。悔しくも何故かこのオヤジをカッコいいと思った。だからバンダナも黙々と残りの皿を綺麗に洗い流した。


カラリン…!


「ケイおじさ〜んっ…て、あれ…?」

と、店に女が入ってきた。考えずとも見てすぐ分かる…こいつが名無しさんか、なるほど確かにシャチがハマりそうだ。バンダナが内心ニンマリしていると、そこで不意にオヤジが小さく釘を刺す。

「おい…名無しさんちゃんに余計な事言ってみろ、お前を下味無しで丸ごと素揚げにしてやる…」

「んげ…」

その凄む目が本気過ぎて、彼はただ頷いた。

「ケイおじさん、新しい人雇ったの?」

「おう、今日からだ。だがまだ試用期間中ってところだな。」

屈託なく笑いながらカウンター席に腰を下ろした名無しさんを見るオヤジは、目尻が下がり毒を抜かれた様な優しい顔で。

二度見する価値が充分にあるその顔から目を逸らし揺れかけた肩を悟られまいと一つ大きく咳払いをしたバンダナにすると名無しさんがふわりと声を掛けてきた。

「初めましてっ、この島で宿をやってる名無しさんですっ。頑張って下さいね、ケイおじさんはこう見えても優しくて面倒見がいい人だから。」

そこでバンダナは驚いた。え…、君の辞書にはこんな見てくれの男に対して用いるべき『警戒心』という言葉はないのかい?普段その風貌のせいか、男慣れしている酒場の女にでさえ最初必ず距離を取られる彼は、いきなり自分に向けられた曇りない笑顔に至極戸惑う。

「あ、あぁ…よろしく。バンダナだ…」

だが普通に挨拶を…彼は素っ気なくも取り敢えず名無しさんに手を差し出した。

ら、バチンっ…!!

「いっっでっっ…!!」

「テーブル拭いてこい…」

思いっきり叩かれた手の甲がジンジンと脈を打つ。どうやらオヤジは得体の知れないどこぞの野郎が名無しさんに安易に触れる事を許すつもりはないらしい。

てか俺の仲間が既に少々至ってますが…シャチの存在がこのオヤジに知れたら多分殺されるぞあいつ。そう思いつつもバンダナは布巾を手におとなしくカウンターを出ていった。

「またお酒、ケースでお願い。」

「おお?何だ、よく飲む客か?まさか絡まれたりしてねぇか…変な輩だったら俺が追っ払ってやる。」

「ハハっ…大丈夫だよ。てかケイおじさんのほうこそ何か変わった事ない?変な人とか…店に来てない?」

「うちか?あぁ、今日一人来たな…あそこでテーブル拭いてる男だ。ん…?だがどうしてそんな事聞く…?」

「別にっ…ただ聞いただけ。」

テーブルを拭きながらキツネの様にピンと耳を立てるバンダナは、二人の会話を聞きながらふと首を傾げる。

確かにさっきのオヤジの言葉は気になるが、でも見るから特に変わった様子のないこの女を何でわざわざ調べる必要があるんだ。

船長やペンギンは何を目論んでる?もし本気でシャチの恋路を両手を挙げて応援してるとするならば、その熱い友情が逆に気持ち悪過ぎて俺は即船を降りるぞ。

「そうだ、ケイおじさん…」

「おお…?」

肉の仕込みを終えたケイおじさんはボールにラップを掛け冷蔵庫に放り込んでから、ワントーン声を下げた名無しさんの正面に向き直る。

「あのね、私ね…今いる客を送ったら、宿を畳むよ。」

「そう、か…」

「うん。」

「じゃあ…あれだ、うちに看板娘が出来るって訳だな!?ガハハっ!」

彼女の悲しい決断と共に滔々と湧き上がる凄惨な過去。そんな憂いを悟られまいとわざと豪快に笑って見せたケイおじさんだったがしかし名無しさんの顔は渋味を増した。

「ごめん…看板娘は辞退させてもらう。…でね?土地を高値で買い取ってもらってね?そしたらそのお金でこの島を出ようかなって…思ってるんだ。」

「島を、出る…?何でだい…?」

人生長くとも今日の名無しさんのこの言葉は予見出来なかったのだろう。ケイおじさんは困惑の色を隠す事が出来ずに返す口調が自然と強くなる。

「辛いなら宿を手放せと俺は確かにこの前言った…だが俺は、名無しさんちゃんが島を出る事には断固反対だ。」

「…え?」

「確かに君はお父さんとお母さんを亡くしてから頑張ってあの宿を一人で切り盛りしてきた。だが、知らない土地と知らない人の中で一人で生きていくのとそれは…全くの別物なんだよ。」

「……」

「危ない事がこの世の中には沢山あるんだ…もしもまた何かあった時に、君は一人で対処出来ないだろ…?」

もう耳を立てなくとも聞こえてくるのは子供を叱る様なオヤジの声。バンダナはそっと二人を振り返った。

するとそこで、頭の堅い父親に反抗する年頃の娘の様に名無しさんが遠慮会釈のない言葉を吐き出す。

「やっぱりケイおじさんも私の事、馬鹿にしてるんだ…」

「名無しさん、ちゃん…?」

「そうだよね、どうせ私はいつだって、花に水をやって部屋を掃除して買い出しして…っ、毎日同じ事を繰り返す事しか出来ない能無しだもんね…」

「違…」

「分かってるの!そんなの本当は自分が一番よく分かってるの!あの日から…私はっ…ただ恬淡な毎日を繰り返す事しか出来ない人間だって…!!」

いつ壊れてもおかしくない卵のような脆い殻に閉じ込めていたのだろう感情を吐き出した名無しさんは、これでもかとケイおじさんを睨み付けると手ぶらのまま店を飛び出して行ってしまった。

残されたオヤジを見れば、その場にただ立ち尽くしている。それだけじゃない…

「違うっ…そうじゃない…どうか分かっておくれ…」

おい、オヤジ…

「俺はただ君が、心配なんだよ…だって君は…あんな事があったのに…それでもあの宿を守ろうと自分を捨てた強い子だから…優しい子だから…純粋な子だから…」

何で…泣いてんだよ

「だから恐いんだ…また君が、誰かに傷付けられるのが…恐いんだよ…」

俺を素揚げするとか言ってたさっきまでの威勢の良さはどこいった…馬鹿野郎

「…おい!マスター!追わねぇなら俺が追うぞ!変な事はしねぇからあんたは安心して仕込みの続きでもしてろ…!!」

とんだ茶番に出くわした。一瞬でもカッコいいと彼に思わせたオヤジの懐の深さとそして仲間が本気で惚れた女を放っておけなくなったバンダナは、布巾をテーブルに叩き付け走り出していた。

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