シャチ中編

□黄昏に暮れて #8
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「おい、待て…」

ソフトケースの頭を指で叩けば開封口から突き出る一本のタバコ。それをスルリと口で抜き取ったバンダナが、形の歪む先端に火を点けながら名無しさんの後を追う。

ふかして立ち昇る煙の塊を渋い顔で避ける彼はしかし声を掛けるだけで一定の距離を保ったままだ。

「おい、宿まで送ってっから…」

「ほっといて下さいっ、一人で帰れますっ!それよりバンダナさんこそ早く店に戻ったらどうですかっ…仕事中でしょっ…?!」

「強情だな、まったく…」

ヘソを曲げた女の扱い程厄介なものはない…と、これは彼の持論。街中で喧嘩をするカップルにも見えるその様子をすれ違う人々が好奇の目で見遣る中、名無しさんは構わずどんどん前を突き進む。

「あのなぁ、あんたに何かあったら困るのはこっちなんだよ…だいたいシャチはどうした?!一緒じゃねぇのかよっ…」

「…っ?」

彼にとっては真っ当な言い分であるが、その言葉が耳に引っ掛かった名無しさんはピタリと歩を止めた。ちょうど街の喧騒を抜けた十字路、彼女は訝しく振り返る。

「何で貴方が…シャチさんを知ってるんですか?」

「え…」

臍を噛んだところでもう遅い。不信感を露わにして真っ向睨んでくる彼女に、バンダナは頭を掻きながらタバコを地面に投げ捨てた。靴裏でジリジリ潰す火種はすぐに熱を奪われ雪の様に舞い上がる。

「それは…」

「それは…?」

「えっと、アレだ。」

「アレって…?」

「だから……」

まだ自分達が海賊の一団である事を知らない名無しさんに何をどこまで話せばいいのか前後に暮れるばかり。やはりこういう繊細な仕事は俺じゃなくペンギンだろと改めて思ってもみたり。

だがそれはさておき、どうしてもこれだけは言っておきたい。じゃないとこっちも気が済まない。あんな男泣きを見せられて黙っていられる性分ではない。

「そんな事よりあんた、次オヤジに会ったらちゃんと謝れよ…」

「は…?話を逸らさないで下さいっ…何で貴方にそんな事言われなきゃ…」

「…あぁそうだな俺には関係ねぇ。事情も知らねぇよ。だがあんたとオヤジを見てて一つだけ分かった事がある。 正直俺から言わせればただの狭隘な話…」

投げやりながらも今度はバンダナが容赦無く彼女を見据える番だ。

「思うにあんたは甘えてる。甘やかされるのが当然だと思ってる。過去を盾にすれば誰も自分を咎めないと高を括ってる…とんだ体たらくだろ、違ぇか。」

「何…、」

「さっきオヤジがどんな思いであんたに言葉を掛けたか分かるか?その真意をあんたは読み取ろうとしたか?…ねぇよな。だってあんたは向き合う事から逃げた。処理するのが面倒臭ぇって、途中でオヤジを切り捨てたんだ。」

「……」

「要は狭いんだよ、あんた…」

「…っ」

言われて拳を握った。悔しいのに何も言い返す事が出来なくて。

別に甘えて生きてきたつもりなどなかったけれどしかし、確かにいつだって周りの人達は自分に対して同情の意を孕み、常に気を遣いつつ接してきていた。

気付けばそれが当たり前となり、それが心地良くなっていた?
だから私は無意識に、自ら記憶を捨て置く事に腐心していた…?

「バンダナさん…」

「何だよ…文句があんなら…」

「私、には…二つの記憶があります。」

「あ…?」

「父と母が死んだあの日の、事です…」

微かに唇を震わせる名無しさんがおもむろに話し出す。同時に空っ風が右から左へ吹き抜けた。枯葉が路面を転がる。カラカラと乾いた音が足元に纏わり付く。陽に透けて揺れる髪が彼女の頬を擽っている。

その髪の軽やかな動きはとても美しい。まるで彼女の悲しみを引き立てようと意図的に仕込まれた演出であるかの様。不本意にもバンダナは視線を落とした。

「事故だった…そう、私の両親は事故で死んだんです。当時の記憶がない私に皆がそう話したから。だからそれが表の記憶となったんです。でも…」

「……」

「違う、と…もう一つの記憶が私に言うんです。父は刺されて…母は、男達に…犯される最中、自害…したんだ、と。でもそんなのって有り得ない。あの血の臭いも、色も、感触も…全部嘘ですよ。だって父と母は事故で死んだ…私は人を殺してなんかないんだから…」

「えぇっと…名無しさん、ちゃん…??」

「だけどバンダナさんの言う通りです。噂されてるのも知ってます…私は悪魔だと。そうですよね、だって私はっ…花を育ててはゴミ箱に棄てる、そんな毎日をただ繰り返す事しか出来ない歪んだ人間…」

「あぁぁ、ちょっ、ちょい待った…」

どうやら自分では気付いていない。彼女はポロポロと大粒の涙を溢しながら、今までひたすらに閉ざしてきた苦悶を滔々と表出してきたのだ。

女の涙は海よりも苦し…と、これもまた彼の持論。途端萎えたバンダナはあたふたとポケットを探るも勿論ハンカチなど持ち合わせている筈もなく。

「悪ぃ…言い過ぎた…俺の癖なんだ、人のポーカーにも口出してよく揉める。」

仕方なく店のエプロンを腰から外して汚れていない裾端を当てがおうと、名無しさんの頬に恐る恐る手を伸ばす。

と、そこに…

「…交代。」

聞き慣れた声、ガシリと掴まれた肩。見れば平静な面持ちながらも射抜く様な目でバンダナを見据えるシャチだった。

「いい歳したおっさんが女の前でしどろもどろしてんじゃねぇよ、情けねぇ…」

「ぐっ…、誰がしどろもどろだコラ…」

「バンさんは店に戻ってくれ。日暮れ前には船に戻るからキリのいいとこであんたを寄越せって、さっきペンギンから連絡があった。」

言いながら名無しさんに歩み寄った彼は私服の袖口でその頬を優しく拭った。涙の訳は聞かない。ただいつもと変わらぬ口調で話し掛ける。

「名無しさん、今夜はペンギン達は宿に戻らねぇんだ。それに今日は色々あったし疲れただろ…だからよ、たまにはのんびり外でメシでも食わねぇか?」

「え、でも…」

「嫌か?」

「嫌じゃない、けど…」

「なら決まり。一回帰って着替えてからまた出直そう。へへっ…な?」

「う、うん。」

おいおいおいおい?
一体どうなってんだ?

完全に存在が空気と化しているバンダナは唖然とする他ない。今まで散々女を転がし遊び倒してきたこのシャチという男、何で名無しさんの前ではそんな穏やかな顔してる…まるで甘酸っぱい恋人同士だ。

取り敢えず邪魔者は消えるとしよう…そっとその場を後にしたバンダナはしかし暫くして足を止め二人を振り返った。が、すぐにまた歩き出す。

大事そうに名無しさんを腕に包むシャチと、そこにぐしゃりと埋もれる彼女の姿が目に入ったからだ。

「…少女に恋をした雪の結晶が嬉しそうにこう言いました。」

あの子に想いを伝えたくて
僕は空から舞い降りた

だけど彼女に触れた途端
この身は溶けて無くなった

「それでも僕は…幸せだった…」

何故だろう…故郷に伝わる古いおとぎ話をその時ふと思い出したバンダナは、またタバコに火を点けながら久しぶりに空を見上げた。



今宵も瞬く一番星を背に、いつもの一本道を街へ向かって歩く。風呂を先に済ませ少し遅めに宿を出たせいか、夕暮れ時が賑わいのピークである中心街は些か閑散としていた。

そんな大通りを言葉少なげに進んでいると、暫くしてシャチが足を止めた。

「店、ココでいっか?」

「え、ここ…?」

彼が顎で指したのはケイおじさんの店の斜向かいにある落ち着いた雰囲気のこじんまりとしたバーだった。確か何度か来た事がある。でもだったら…

「シャチさん、それならケイおじさんの店に行かない?私、おじさんに謝りたい事もあるし…」

至極もっともな提案だろうと名無しさんはシャチが頷くのを待った。がしかし、彼は首を横に振った。そして唐突に切り出す。

「なぁ、名無しさん…」

「…ん?」

「海の広さを…お前はまだ知らない。」

「へ…?」

店の看板の明かりがやけに眩しい…それとは関係なく名無しさんは目を細め、次にゴクリと唾を呑んだ。シャチの様子がいつもと違う事に今やっと気付いたから。

彼は何を…言う?


「俺達は…海賊だ。」

「……」

「だから全部、ぶっ壊すぞ。」


眩暈がした。
でも…不思議と恐くはなかった。

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