シャチ中編

□黄昏に暮れて #9
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ちょうどシャチと名無しさんがバーに入ったのと同時刻、エミリーはグロラスホテルの最上階にあるバルコニーから中心街を見下ろしていた。

とっぷりと日が暮れたかに思える空の先はよく見ればまだ緑が残る。しかし眼下に林立する街灯はその余韻を無視して人口的な朽葉色を滲ませている。

刻一刻と夜に沈みゆく玉響の色感を肴にワインを呷るのが、どうやら彼のお気に入りのひと時…

「…ハートの海賊団?」

けれど今日、その表情は険しい。

「はい。シャチという男はこの海賊団のいわゆる幹部です。それと名無しさんの宿にいた二人の内、白い帽子を被っていたほうがトラファルガー・ローですね。防寒帽の男はペンギン、名は知られてませんが副船長の立場にある者です。」

「……」

「因みに彼らの船は島の西側に停泊。出航予定は二日後の夕刻となってます。」

「ふぅーん…」

シャチ達の素性を報告したブラウンさんは手元の紙を捲り、次に二枚目の書類を読み上げる。それはハートの海賊団についてではなく名無しさんの件だった。

「五年前…なるほどね。」

初めて彼女の過去を知ったエミリーの口元がそこで俄かに緩んだ。美しくも悲しい女には常に胡乱な男が付き纏うもの…自身もそこに属する事が何だか可笑しくて仕方がない。

「精神を病んだ女が健気な顔して経営する殺人の宿…。ふふ、俺的には益々そそられるけど。でもそんな噂がもし一般の観光客に知れちゃったらさ、次の事業にも差し支えるよなぁ…。てか役人共は知っててこの話を俺らに伏せてたって訳か…どいつもこいつもムカつくわ…」

「エミリーさん…」

「決めた、予定変更。面白い事思い付いた。」

「はい…?」

「ケイの店の襲撃時刻を少し早める。思う存分派手にやってくれと裏の奴らに伝えておけ。」

言って振り返ったエミリーは、爪みたいな細い新月を背に首を傾げて見せた。手に持つ書類を封筒にしまうブラウンさんは静かに息を吐くと「しかし…」と付け加える。

が、何を言ったところで彼が意に介さないのは百も承知。案の定、異論の声は無下に遮られた。

「今、宿は無人なんだろ…?」

「はい…名無しさんとシャチは街に出て、トラファルガー・ロー達は船にいると確認してますが…」

「なぁ、ブラウン…」

再び背を向けたエミリーは空のワイングラスを左手に持ったまま今度は両腕を広げ、落ちそうな程に上半身を手摺りに凭らせた。まるで空を飛ぶ浮遊感を愉しんでいるその姿は、次の言葉さえなければ無垢で純真な少年に見て取れただろう。


「あの宿…とっとと排除しろ。」


軽快な口笛が夜風に乗った。
いつもと違う、生温い風だった。



シャチと名無しさんが着いたのは入って手前の窓際の席。外観のイメージとは違い、そのバーの内装は案外小洒落ていた。

楕円のテーブルには青いステンドグラスが置かれており、その中で小さなキャンドルが淡い炎を掴んでいる。見れば全席に灯されているが、ステンドグラスの色は其々違っていて多種多様な揺らぎを天井に踊らせていた。

「いらっしゃい名無しさんちゃん。久しぶりだね、ごゆっくり。」

この店のマスターも幼い頃からの名無しさんを知っている。すなわち名無しさんの両親も、そしてあの日の事も。しかしケイおじさんとは正反対の細身で無口な彼は、控え目なウィンクを一つ落とすとウェルカムドリンクを置いてすぐに立ち去った。

名無しさんは放心した様子で、目の前にあるグラスになかなか手を付けない。時折瞬く長いまつ毛が少し重たげだ。正面に座るシャチもまた、意味なくテーブルの木目を凝視していた。何だか青に滲むキャンドルの光だけが、この世で唯一生きているかの様。

「……」

取り敢えず木目の筋を全部数え終えたシャチは、ふつふつと湧き上がる懸念を苦く咀嚼する。

…『俺達は…海賊だ。』

これまで自分が海賊である事を恥じた事など一度もない。むしろ誇りだ。今の自分でない自分なんて有り得ないし想像出来ない…したくもねぇ。

だけどやはり海賊とは一般的に『悪』である。物を奪い、女を犯す。ならば名無しさんにとって自分とは、あの日の憎き男達と何ら変わりないのでは…?

弱気な思考がぐるぐる駆け巡る。ついでにこの沈黙が痛い。それらを払拭したくて首を振った彼は、酒を一気に喉に流して窓の外に視線を遣った。

「シャチさん…?」

と、そこで名無しさんが目を上げ、シャチの顔を覗き込む様に見つめてきた。シャチは「あぁ…」と応えるも横を向いたまま帽子のつばを少し下げる。

別れ話かな…て、付き合ってねぇし。

そうやっていじけて鼻の根元を顰める彼にしかし彼女が紡いだ言葉は意外なもので。


「シャチさんはこの島を出たら、私を忘れちゃうのかな。私もまた…シャチさんとの日々を忘れちゃうのかな。」


言われてハッとした。どくりと心臓が跳ねた。見れば彼女は仄暗い灯りの中、泣きそうな顔して笑ってたんだ。

そして誰がどうとか…さっき迄のそんなちっぽけな懸念を斜めから穿つ思念を漏らした名無しさんは手に取ったグラスを勢い任せに半分空けると、言った言葉が照れ臭かったのかそれを誤魔化す様にわざと明るくプハーっと息を吐いた。真っ赤に染まる頬の色は隠しきれないくせに…

喉元がぎゅっと締まる。

「君が俺を忘れて、俺が君を忘れる?」
「そんなの有り得ねぇだろ」
「君が捨てる今日を拾うのは俺だ」
「明日も、あさっても、その先もずっと…拾い集めた日々を花束にして、君に捧げるのはこの俺だ」

胸の内では吠える。滾る。

『だから一緒に、海へ…』

けどそんな事、安易に言えるか馬鹿

「えっと…いや、あの…ご、ごめんなさい。今のは忘れて下さいっ…それより何か注文しましょうか、お腹っ、空いたでしょ??この店は全部美味しいからマスターのお任せでいいかなっ、ハハハ…」

自分の発言に当惑するシャチに困惑してしまい、今度は困った風に笑った名無しさんがあたふたとメニューを開いた。

その時だった…


パンパンパンパン…ッッ‼


突然、窓の外で銃声が鳴り響いた。
一度だけじゃない、立て続けに何度も。
重ねてガラスが砕ける音、悲鳴、怒号。

「なっ、っ…」

肩を竦めながら騒ぎを見れば、何人もの男達が一斉に銃を乱射していた。その鉛の流星にケイおじさんの店の壁や窓ガラスが粉を散らす。通り掛かりの人々は慌てふためき蜘蛛の子の様に逃げ惑う。

「ケイおじさんっ…‼」

明らかにケイおじさんの店が的になっている。きっとエミリーやブラウンさんが言っていたのはこれだ…私のせいだ。

彼女はガタリと席を立った。その衝撃で青のステンドグラスが倒れ、キャンドルが熱を失う。

「おい…」

ガシリ…

「…っ⁉」

だが、走り出そうとしたところで腕を掴まれた。シャチが座ったままに彼女を制したのだ。帽子のつば越しに見上げてくる彼の瞳はまるで動じず。

「此処にいろ…」

「は…?!」

「此処で見てろ…」

抗おうにも手を振り解けない。二人がこうして見据え合う間にも、大好きなケイおじさんの店がめちゃくちゃに壊れていくのに…

「…てか予定より早ぇな。どうなってんだ…」

そうぼそりと言ったシャチは名無しさんを無理矢理引き込んで隣りの席に座らせた。

「店にはバンダナがいる。あんな弱味噌共、おっさん一人で充分だ。」

彼の口振りに頭が混乱する。もしかしてこうなる事を知っていて、それでわざわざこの店に来た…?

「シャチさん…っ」

「……」

「ねぇシャチさん、何でっ…」

連打する疑問符は上手く言葉にならない。そんな彼女の葛藤を察している筈なのに、彼はただ名無しさんの手を握るだけで。

時間にすると三分もなかっただろうか。銃弾が尽きた男達が今度はダガーを手に店に入って行く。辺りは一変してしんと静まり、たまに崩れる瓦礫がパラパラと路面を叩くだけ。

時間が止まってしまったのか
それとも世界が終わってしまったのか
何より、ケイおじさんは…

シャチはそれでもまだ動こうとしなかった。つまらない映画や演劇の緞帳が下りるのを取り敢えず待つみたいに。


キィィィ……っ


そんな長い長い静寂の果て、ケイおじさんの店の扉が音を立てた。そして開いたそこから出てきたのは…愛用の包丁を手に持つケイおじさんと、血の滴るダガーを投げ捨ててからタバコに火を点けるバンダナ。

「あ〜あ、オヤジ…外、ズタボロ。どうすんのコレ…」

「…あ?男がそんな小さい事いちいち気にすんじゃねぇ、こんなもんまた直せばいい!どうせ修繕費は全部グロラス持ち…何ならついでに、うちも高級ホテルに建て替えてもらうかっ、ガハハハハっっ…!!」

「ぶっ…、それアリかもな。」

彼らは身体に染み付く返り血もそのままに拳と拳を合わせ、爽快に笑っていた。

「お、おじさん…??」

それってまるで、さっきまで銃を乱射していた男達を容易くやっつけた風な…そんな二人の様子は名無しさんをあんぐりさせるに充分で。そしてここで初めて彼女を振り返ったシャチも更に言葉を乗せる。

「あのオヤジも昔はそこそこ名の通った海賊だったらしいな…知ってたか?」

「へ…?」

ケイおじさんが…?
そんなの、知らなかった。

「ついでに俺達もこの島の事は大体把握した。グロラスホテルに関する情報は裏街を絞れば簡単に手に入った。んで、うちの船長が奇襲の件をオヤジに伝えたらよ、あのオヤジ、腹を抱えて笑ったらしい。"この店一つで奴らを潰せるならむしろ大歓迎だ"…とか何とか。」

名無しさんの脳裏にエミリーの顔が浮かんだ。今回彼の陰謀はシャチ達によって妨げられた。でもこの先またないとは限らない。自分がこの島にいる限り、例え宿を手離したところでそれは延々続くのでは…

「シャチさん…」

「お…?」

「私…、」

ぷるぷるぷるぷる…
ぷるぷるぷるぷる…

「あ、悪ぃ…、ちょっと待って…」

彼女が何かを言いかけた…とんでもなく気になる。だがポケットが煩くて仕方なしに電伝虫を取り出すと、険しい顔をした防寒帽の電伝虫がすぐに口を開く。

…「名無しさんはそこにいるか?」

「…あ?あぁ、勿論一緒だ。まだ向かいのバーだけど。」

…「……」

「て、用件は?」

刹那、電伝虫の顔が眉を寄せた。

嫌な予感…


…「すぐ宿に向かえ…」


チラリと名無しさんを見遣ると、彼女は間の抜けた顔をしつつもどこか不安げに窓の外を見たまま。

彼女に話を聞かれたくなくてそっと店の外に出たシャチは、改めて電伝虫の向こうにいるペンギンに問うた。

「…宿ってどういうこった…まさか…」

…「そのまさかだ…」

「……」

…「名無しさんの宿が……燃やされた。」

あのクソガキ…

…「いいか、奴らはこっちで片付ける。だからシャチ、お前は暴走するな…」

ぶっ殺してやる…

…「おい、聞いてるのか…」

手のひらにある電伝虫がいつもの様に執り成してくる。だが意外にもシャチは冷静だった。逆に久しくなかった憤懣を舐めて味わう余裕すら漂わせて。

「あぁ…分かってる。けど、これだけ船長に伝えといてくれ…」

…「……」

「あの小僧の首は俺が取る…」

通話を終えたシャチは店に戻った。バーのマスターには会釈だけして名無しさんの手を取った。外に出れば、バンダナとケイおじさんが不思議そうにこっちを見ていたが構わず駆け出した。

「シャチさんっ…!?待、待ってっ…どこに…っっ!?」

毎日花に水をやり、窓を拭き、皿を洗う…だから今、俺が握る彼女のこの小さな手はいつも少しかさついている。


温かくて…可愛い手


唇を噛んで空を睨むと
待ちくたびれた一番星が…霞んでいた

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