シャチ中編
□黄昏に暮れて #10
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もしかして…って思った。シャチの唯ならぬ気迫と「痛い」と叫んでも離してくれない掴む手の強さに。何より、駆け抜ける一本道の先の空がオレンジ色に灼けていたから。
「はぁ……っ、はぁ…っ」
とにかく走って走って走り続け、一度も立ち止まらずに島の端まで辿り着いた名無しさんは、激しく前後する胸を押さえてじっと前を見据えた。
「……っ」
目の当たりにした光景に息が詰まる。油でも撒かれたのだろう、もはや手の付けようがない。炎は烈火の如く燃え盛り、既に宿全体を包み込んでいたのだ。
その火柱は先端を鋭く尖らせて漆黒の空に噛み付こうと高らかに立ち昇る。渦を巻きながら右に左に大きく揺れ、まるで牙を剥く龍の様。
瞬きも忘れ暫し茫然と立ち尽くしていた名無しさんはそのままその場にへたり込んだ。ざらりとした砂が汗ばむ肌に張り付く。
「畜、生…」
彼女の心中を忖度すればする程、シャチの身体は怒りに震えた。つい何時間か前までそこにあった日常が今、目の前で煤の骨組みと化しているんだから。
それだけじゃない、庭の花壇に咲く小さな白い花々は踏み潰され荒らされた形跡が明らかにあった。
「何してる、消すぞ…」
「……」
「火を…消すんだよ…‼」
唸る様に叱咤してシャチは名無しさんの肩を掬い上げた。けれど名無しさんの足はフラついて立つ事もままならない。
本当は支えていたい。「大丈夫だ」と言って彼女を抱き締めていたい…
「俺が…消す…」
だが、彼は離れた。途端名無しさんがまた地面にへたる。構わず踵を返してシャチが向かったのは花壇の横にある古い井戸。
ガシャン…ガシャン…!
毎朝彼女と一緒に花に水をやっていたから要領は得ている。やたらと重い鉄のノブを慣れた手つきで何度も押し引き蛇口から噴き出す水をバケツいっぱいにした彼はそれを宿目掛けて投げ突け始めた。
勢いに揺れてバケツから跳ね上がる水で服がずぶ濡れになる。凄まじい熱風にまつ毛がジリジリと悲鳴を上げる。エミリーが見たらさぞご満悦だろうそのなり振り構わぬ徒労をシャチは延々繰り返した。
だけど水は音を立ててすぐに白い蒸気となるだけだ。いや、それ以前にこれで火が消えたとして一体何が残るという…もう残る物などないだろう。
そんな事は分かってる。早くあのガキの首をかっ裂いたほうがどれだけマシかと。でもだからこそ、こうでもしていなければ気が狂いそうだった。
「そっか…」
目の眩む緋色の濃度はこの島の黄金色など比でもない程に煌々しくて美しい。現実味のない色合いは催眠術のように視覚から脳へ滑り込み、彼女の中に沈む歪を静かに揺さぶり起こした。
此処はお父さんとお母さんが大事に大事にしていた場所、小さな幸せを見つけた場所、私を産んで育てた場所。
箍が外れたあの日からもそれだけは必死に心に刻んできた。一人は嫌とか、一人は恐いとか、そんな事を吐いてはならないと。
投げ出すな、逃げ出すな
お父さんとお母さんが悲しむよ
まず自分を捨てるんだ
此処に留まれば誰も責め立てやしない
人 殺 し の お 前 を
自分が創り出してしまったもう一人の自分の声が脅威だった。背けばまた誰かが何かを奪いに来ると、自ら本能に深く刷り込こんだんだ。
だけども無理が利かなくなって、気付けば前にも後ろにも動けない。昨日と今日の境界もあやふやになっていき、いつしか記憶を捨て置く事でしか自分を保てなくなっていた。
本当は恙無い明日を、続く明日を
ずっと求めていたくせに…
「シャチさん…」
ずぶ濡れになりながらバケツの水を放り続ける彼をぼんやりと傍観していた名無しさんは、するとややして声を絞り出した。
「もう、いいです…」
「あ…?!」
「もういいですから…やめて下さい…」
火は全てを焼き尽くすまで燃え続ける
ならばいっそ、潔く見守りたい
だって…
「私…こうなる事を心のどこかで望んでた。」
言われてシャチはバケツを地面に叩きつけた。「しっかりしろ」と怒鳴りつけるつもりだった。
だが、振り返った途端言葉を失くした。
散り散りと舞う火の粉の中、彼女は何とも複雑に微笑んでこう言ったから…
「私、やっと自由に…なれるよ?」
焦げる空の下、全てが灰になるまで二人は其々に宿を見つめた。パチパチと弾けながら崩れる柱は崩れた途端粉になり、煙に紛れて風に消える。
そうやって少しずつ、強固な呪縛から彼女は解き放たれていった。
ー
「シャチさんから貰った卵…まだ少し残ってたのになぁ。もったいない…」
また街に戻る途中、背中におぶる名無しさんがぼそりと呟いた。「卵…?」てか卵じゃねぇだろ。それを言うなら写真とか金庫とか大事な服とかアクセサリーとか…
「卵ねぇ…」
今のが精一杯の虚飾だとしたらちょっと撚りが足りないよな。本人は場を和ますつもりだったか知らないが、言われたほうは当惑して応えに詰まる。さりとて袖にする事も出来ない。シャチは乗りつつ方向をシフトする事にした。
「あの瓦礫掘り起こせば美味そうな燻製卵が出てくんじゃねぇか?」
「あっ…そうかも。」
「けど俺はここ一週間ずっと卵料理だったし、いくら何でもそろそろ蕁麻疹出そうだからもう要らねぇわ。まぁ、名無しさんがあ〜んしてくれるっつんなら薬塗りながら喜んで食うけど。」
「ハハハ…っ」
やっと笑った。これが一番いい。
「へへ。」
にしても、密着する身体が今更照れ臭い。歩く度に衣服が擦れ合って、煤で汚れた彼女の顔が耳のすぐ後ろにあって、笑いで漏れた息に脳が擽られてしまって。どうしても思考が傾斜してしまう。
だけど全部を失くして疲弊する名無しさんをここで離したら、糸が切れた風船みたいにどこか遠くへ飛んでいきそうで恐かった。ぎゅ…と抱える手に自然と力が入る。
「てかお前、ちゃんと飯食ってる割りに本当軽ぃよな。細いし折れちゃいそうで、どの力加減で抱き締めたらいいのかいつもドキドキちしまう…」
「え…?」
と、シャチの何の気ない軽口に彼女は小さく強張った。あ、余計な事言っちまったか…名無しさんが笑うと嬉しくてつい調子に乗ってしまうんだ。早く立て直そう。弛んでいた口元を彼は慌てて引き結ぶ。
が、話の結び方を間違えた。
「あぁ、悪ぃ…変な意味とかじゃなくてよ。例えばもし本能だけでお前を抱いたら、お前壊れちゃうかも…って。」
「……」
「いや…違くて、アレだ。つまりは、お前を抱く時はうんと優しく……じゃねぇ、えっと…」
何言ってんだ俺。これじゃしどろもどろなおっさんと変わんねぇだろ。やっぱおんぶなんかするんじゃなかった、この態勢が全部悪い、この密着感が…とか何とかもう訳が分からない。
「私から?…えっとじゃあ、りんご。」
「ご…?ご…ご、ゴマフアザラシ。」
一人どつぼの迷言と忌々しい煩悩を何とか掻き消したくて、その後の道中はしりとりをしてやり過ごした。
「さてと…名無しさん、立てるか?」
足を止めたのはグロラスホテルの手前。着いたところでシャチはそっと名無しさんを背中から滑り下ろした。その表情はさっきまでとは打って変わり鋭く尖っている。彼は口だけ笑うとポンポンと大きな手で頭を撫でてきた。
「待ってろ、すぐ終わる。」
それ以上は言わず背を向けてホテルに入っていったシャチを見遣る名無しさんは、入れ違いに背後に立った気配に気付いてびくりと振り向いた。
「クク…、恋人を案ずる女の顔だな」
揶揄してきたのはトラファルガー・ロー。まともに話しをするのは初めての様な気もするが、宿で寛ぐ彼の一面を見ているからもう恐くはない。肩を並べた彼はホテルに目を向けたまま話し出す。
「宿は…」
「…え?あ…は、はい、もう…」
「そうか」
シャチ然り、彼らからの慰めや同情の言葉は皆無である。しかし彼らがそうやって平常でいてくれる事が名無しさんにとっては救いであった。彼らが知っててそうしているのかは知らないが…
「お前、この先どうするつもりだ」
背の高いローの横顔を窺いながら思考を巡らせていた名無しさんは、不意に聞かれて俄か頬を引き攣らせた。
この先…それは続く明日の事
「……」
途端、頭が真っ白になった。声が出なくてただ目を伏せた。ローは答えを待つ訳でもなく、前を見たままガチャリと鞘を握り直した。
「今のうち考えとけ…」
きっと後で同じ事を聞かれる、から
「はい…」
ゴクリと唾を飲んだ彼女は、ローと一緒にホテルの最上階を見上げた。
ー
中に入ると、エレベーターの前に立ち塞がるブラウンさんがいた。シャチは変わらず歩を進め、真っ正面に立つと顎をしゃくり剣呑な眼差しを刺す。
「退け…」
言われたブラウンさんはそこで何故か目を細めて微笑んだ。偽りのないそれが逆に訝しい。
「何笑ってる…」
イラつきを露わにしたシャチにしかしブラウンさんはいつもの穏やかな口調で言った。
「シャチさん…どうか、名無しさんさんに謝っておいて下さい。と言っても、謝って済む問題ではないですが…」
「あ…?」
益々眉根が寄る。何なんだこいつ…
「あの人は…エミリーさんは、自分の物差しでしか物事を測れない人なんです。力に伏さないものは嬲る、あるいは排除する…と。」
「……」
「実は私もその昔、彼らの権力に排除され吸収されたクチでして。だからさすがにもう我慢の限界でした。」
私もある島のとある街で、親から受け継いだ小さなホテルを経営していました。そこに突然やってきたグロラスグループに街は乗っ取られ、私のホテルも『排除』されました。その後、生活の為に彼らの事業の末端に関わっていたところを一代目に買われ現在に至ります。
二代目…エミリーさんの秘書となってからは色々な悪行にも手を染めました。『排除』された私が、『排除』する側になったんです。
最初は痛んでいた心もいつの間にか痛感が麻痺して、一時は私が弱い物件を抜粋する役目を担ってました。自分がそうでしたから、自分と同じ臭いを嗅ぎ分けるのは容易い事で。
此処で名無しさんさんや貴方に出会えて良かったのかもしれません。そうでなければ私はこのまま、腐っていく自分に気付かずに彼らと同類になっていた。だから…
「そろそろ…潮時でしょうね。」
言いつつ彼は腰から銃を抜き取ると、わざわざ銃把をシャチに向けて差し出してきた。シャチは目を眇める。
「何の真似だ…」
「彼は銃を持っていますよ。貴方は丸腰でいいんですか?」
押し付けるでもなく図るでもない具合いが絶妙だ。どうやらこの男は本気らしい。暫し推察していたシャチはそこで片側の口角を上げた。
「たかが街一つ手掌に転がすだけの青臭ぇ小僧相手に得物なんか要らねぇな、俺は。」
「頼もしいですね。では、私に何か出来る事は?」
ブラウンさんはエレベーターのボタンを押した。扉はすぐに開いてシャチは二度目のそこに足を踏み入れ振り返る。二人はまた向き合うと、夕飯の相談でもするかの様に言葉を交わした。
「あんた含め、俺とあの小僧以外の人間を一人残らずこのホテルから退去させてくれ。」
「了解しました。30分で完了します。」
閉まる扉の向こうで、ブラウンさんは深く頭を下げていた。