シャチ中編

□黄昏に暮れて #15
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追ってくるのは虚しさ一つ。だから船を降りてからの名無しさんは一度も後ろを振り返らなかった。

途中何度か足が縺れて転んだけれど痛くも痒くもなく、とにかく潮の香りが薄れる場所までひたすらに前へ進む。その境界を越えさえすれば幾分肩が軽くなるだろうという妄念に取り憑かれて。

「わ…っ…!」

と、少し道幅の開けた林道に入ったところで突然吹いた強い風に髪がぶわりと巻き上がった。洗いたてのシャツの襟もバザバサと頬を叩いてくる。

暴れるそれらがうざったくて両手でぎゅっと押さえつつ空を睨んだら、今度は何処からともなく滑り落ちてきた大きな水滴に頬を濡らされ、そこで彼女はやっと足を止めた。

「雨……?」

ガレイリ島の雨は珍しい。この島は昔から豊富な湧き水の恩沢に土壌が潤っている。だから人も動物も山々でさえも、"恵みの雨"という概念を持たない。

とかく近年は観光客の財布の紐も絡む故に晴天を好み雨を嫌う傾向が強い。きっと年寄りや商人達の明日の井戸端ネタは雨がどうたら一色になるだろう。

しかし…気のせいだったか。空は確かに濁ってはいるも雨の気配は無く、それ以降雨粒が落ちてくる事もなかった。

不思議に思いながらもまた歩き出し、途中道端に見つけた可愛らしい花々にふと心惹かれて。

「ちょっと欲張り過ぎかな」とは小さく思いつつも、無我夢中で沢山の花を摘み上げて腕いっぱいにした花束を嬉しそうに抱えた彼女。そのつま先の次は、当然とばかり宿へと向けられた。

骨組みも残らない焼け跡はまだ手付かずに置かれてあの日のまま。今だ焦げ臭い潰れた黒の塊は何処かに燻りを隠し持っているかの様で、夜になったら蠢き出すお化けみたいで何だか恐い。

ふぅぅ…と細長い息を吐いた名無しさんは庭に歩を進めると、すっかり干からびて平たく散乱する悲しい花達を慣れた手付きで端に捨て置いてから膝を突いた。

そのまま素手で土を掘り起こし、摘んできた花を丁寧に植え、最後に水をたっぷりと注ぐ。新しい花の色は薄いピンクなので、夕陽に透けたらどんな風に輝くのかな。けれどイチョウの色さえくすむこの空の下では上手く想像が出来なくて、今日の曇天を少しばかり憎んだ。

「さて、行こう…」

せっかく洗濯してもらったスカートが土で汚れてしまった。風も強まってきたしそろそろ陽も暮れる。名無しさんは花に手を振ってゆっくりと立ち上がった。

そしたら、ポツ…ポツリ…

やっぱり雨だ…遅疑なく再び頭上を見遣る。だけれどまたそれは雨じゃなくて。

「あ……」

大きく伝う水滴は自分の目から零れ落ちる涙だったと、その時初めて知った。

「っ…」

どんなに表面を取り繕っても、どんなに無理して何でもない風を装っても、臨界を突破した人間の感情に誤魔化しは利かない。内側で滾り勝手に形を変え、心を治癒すべく排出されるその身魂の摂理には誰しも逆らえない。

「…つっ…ッ…」

頬をコロコロ転がっては靴先に落ちて潰れる悲しみの化身を、名無しさんはそれこそ雨粒を一つ一つ追う様にじっと見つめた。

そっか、そうだ。
笑えるくらい簡単だ。

…泣けばいいんだよ

惨めでも何でも、今ここで全部を吐いてしまえば少しは救われるかもしれない。例え一本の藁だとて、縋るべき物ならば素直に手を伸ばして縋り付くべきだ。

だって私は今、

「苦しい、よ…っっ」

早く、忘れてしまいたいです。
貴方の笑顔を、優しさを、全部。

「シャチっ…さん…っ」

そしたらもう二度と
こんな思いをしなくていい…

「ふぇ…っ…ふぇぇ…っっ」

だから馬鹿みたいに泣いた。
子供みたいに声を上げて。

こんな風に泣いたのはいつ以来だろうか……そんな事を考えたところで思い出せる訳がないと、心の奥で彼女は自嘲していた。



バンダナの言う通り、名無しさんの宿の庭には以前の様に整然と花が植えられていた。風に揺れる花弁が濡れている。これは本格的に降り出した雨のせいだ。

彼女の姿はなかった。だがそれでいい。それは想定の内だし、そうであって欲しいと願っていた。何故ならこんな悲しみの残骸しか残らない場所にずっと佇む名無しさんを目にしたら、自責の念に首を締められ気が狂うだろう。

シャチはすぐに街へ歩き出した。帽子を叩く雨の音に鼓膜を震わせながら。

カラリン…

思えばシャチがこの店に足を踏み入れるのは名無しさんと出会ったあの日以来。ずぶ濡れのつなぎからポタポタと水を滴らせる彼は前を見据えた。

店内は瓦礫が全部壁側に寄せられ、テーブルや椅子も全て端に纏められていた。カウンター周りだけは何とか平常に戻したのだろう、ケイはその中で背を向け鍋を振るっている。

脂が弾ける旋律と共に香ばしく漂う腹が鳴りそうないい匂いは、焦げ色を焼き付けた鶏肉の皮のそれか。

「悪ぃが今はこんな状態でな…営業はしてねぇ。今日は余所行ってくれ。」

チラリとだけ振り返ったケイはシャチのつなぎの胸にあるドクロにそう言った。そしてそれで打ち切りとばかりに手際良く肉をターナーでひっくり返す。

このオヤジはきっと何かを察している…けれどもシャチは引かずに声を掛けた。

「名無しさんを迎えに来た…」

「あぁ…そうかなるほど…」

「あ…?」

「てめぇか…」

「……っっ!?」

それは一瞬の事だった。振り返ったケイが突如カウンターにある灰皿をシャチの顔面目掛けて投げ付けてきたのだ。バンダナだったら完全にヒットしていたであろうそれをしかし彼はひらりと躱す。

「何、しやがる…」

「それはこっちの台詞だ小僧…」

コンロの火を止めて仁王立ちしたケイの目はこれ以上なく沸騰している。顎をしゃくり口を引き結ぶその様相は正に仁王そのもの。怒りに満ちたケイは言った。

「あの子がどんな顔して此処に来たと思う…?!あぁ?!」

「……」

「泥だらけの手で目を擦ったんだろうな…ぐちゃぐちゃの汚ぇ面で、それでも笑って俺に頭下げてきたんだよ!…"行く所が無いから此処に置いてくれ"…てよっっ…!!」

続けて飛んできた皿はシャチの襟元を掠り、背後で派手な音を立てて木っ端微塵に砕けた。

…どうやら相当に嫌われている

「せっかく片付けたのにまた店が散らかるのは御免だ…」

「……」

「表出ろ、海賊…」

その頃、二階の古い風呂を借りていた名無しさんは何も知らずに髪を洗っていた。今夜寝て起きたら、明日からはケイおじさんの店の看板娘になるんだ…とか

そんな事を思いながら
泥と涙を排水口に流していた。

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