《2》
□狡い真意
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「あれ?」
朝起きるとトラファルガー・ローがいない。
しかし彼の机の上にある、コーヒーが波打つ白いカップからはふわふわと湯気が立ち上っていた。
そのカップに目を遣りながらベッドから上体を起こしいつもの様に壁に凭れていると、ふとそのカップの横にあるランプが目に入り私は昨日の彼とのキスを思い出した。
ジン…と胸が熱くなる。
ガチャ
トラファルガー・ローが朝食のトレイを1つ手に持ち船長室に戻って来た。
「お、おはようございます。」
彼の唇を見て私はその感触を思い出し目を伏せた。
彼は何も言わず真っ直ぐに私の所へ歩いてくると、朝食のトレイを手渡してきた。
そしてベッドの横の椅子に腰を下ろすと、白い帽子を取り少し眠そうな顔でくしゃくしゃと髪を乱した。
「あれ?船長、ご飯は…」
「あぁ、食堂で食ってきた」
昨晩私達はあのまま同じベッドで寄り添い眠りについた。
男の腕の中でその温もりに身を委ね安心して熟睡出来たのは初めての事だった。
「頂いてもいいですか?」
「あぁ」
私は自分の大腿の上にトレイを置き、手を合わせてから朝食を食べ始めた。
しかし何かが気になって仕方がない。
ちらりと見るとトラファルガー・ローがまた私をじっと見据えている。
どうも見られていると食べ辛い。
がしかし彼はまるで観察でもするかの様にその視線を私に向けていた。
「あ……」
私はその視線に意識を持っていかれそして緊張のあまり、口に入れようとしたフォークが口端に引っかかり、食べようとしていたサラダのマーヨネーズがぺたりと顎に垂れ落ちてしまった。
「あれ……あぁぁ」
私はキョロキョロとナプキンを探すが見当たらない。すると…
ぺろり
トラファルガー・ローが身を乗り出して、私の顎についたマーヨネーズを舐め取ってきた。
「クク…ガキか」
彼は至極愉快そうに私を見遣りそして笑った。
「ハ…ハハハ…」
私は顔を赤くしながらもそんな彼と一緒に笑った。
それにしても今日は温かい朝食を食べる事が出来て良かったと思いながらも、私は昨日から彼に提案したい事が1つあった。
「あ、あの船長、私もう大丈夫なんで何か仕事をさせて下さい。操舵室の仕事も気になるんです。」
昨日の様な恐ろしく長い1日は正直もう嫌だったのだ。
すると彼は暫く考えてからこう答えた。
「午後の操舵室の仕事だけ許可する。他はまだ何もしなくていい。終わったら戻って来い」
「はい。ありがとうございます。」
それから私は急いで朝食を済ませ、1度自分の部屋に戻って着替えを取りに行こうとベッドから起き出した。
しかし…
「あれ??」
昨日と同じ不思議な感覚がまた私の中に蘇ってきた。
今日も私は患者服である。
しかしこの患者服は洗いたての清潔な、パリッとした感じである。
また私は着替えたのだろうか。
「船長、たぶんまた着替えてますよ。」
するとトラファルガー・ローは椅子から立ち上がり本棚へと本を取りに行きながらこう言った。
「あぁ、さっきだ」
そして分厚い本を3冊手に取ると、いつもの椅子に腰を下ろし本を開いた。
「そうですか。じゃあ私、部屋行って着替えとあと本とかも持って来ますね。」
私は患者服のまま、2日ぶりに船長室を出て自分の部屋へと向かった。
「お疲れ様でーす。」
船長室でトラファルガー・ローと昼食を済ませ支度をしてから、操舵室へと向かった。
たった2日の間、来ていなかっただけなのに何だかとても懐かしく思えてしまった。
ペンギンさんはちらりとだけ私に目を遣ったがすぐに海図に視線を戻した。
私は気にせずに他のクルーに指示を仰ぐと、大気の観測をしてきて欲しいと言われ1人甲板へと向う事となった。
「あー、やっぱここが落ち着く。」
今日は晴れている。
大きな青に心も晴れた。
私はこの観測の仕事が大好きである。
大気も、星も、私の声を聞いてくれそれをさらりと流してくれる様な気がするからだ。
いつもの様に甲板の隅に座り込み、膝を抱え空を見上げて目をつぶり、ただ耳を澄ませた。
すると空気が……誰か来た。
私はふと振り返りその人物を見て……
驚いた。
「シャチ?」
「よぉ」
彼は少し疲れた顔をしていたが、二カッと白い歯を見せて笑い、手のひらをこちらに向けた。
「ちょっと今いいか?」
「え?あ、うん…」
突然の彼の出現に私は戸惑いを隠せずにいたが、彼は構わず私の隣にどさりと腰を下ろした。
少しつなぎが触れる程の距離に、彼の匂いを久しぶりに感じた。
薄い…ピンク色の匂い。
その花の様な甘い匂いに私は彼と笑いキスをした日々をふと思い出した。
「体は?もういいのか?」
彼は前と同じように優しく私の顔を覗き込みながら話し掛けてくる。
「う、うん。もう全然大丈夫だよ。」
「そうか。良かった。」
私は彼の顔を見る事が出来ずに、空の、青の色の、粒子を見つめていた。
何だか胸がギュゥと締め付けられる。
私は彼に何をすれば、彼に与えてしまったその苦しみを薄める事が出来るのだろうか…。
ぼんやりと青を見ながら考えていたがふと、彼がそんな私を見つめている事に気が付き視線が絡まった。
彼が…切ない…。
彼の顔を見ると私は泣きたくなってしまう。
サングラスの奥のベージュの瞳がきらきらゆらゆらと助けて欲しいと私に求めてきている様だった。
暫くどちらも話す事なくただ当たり前の様に、お互いの瞳の、奥の、思いを探し見つけ出そうとしていた。
するとシャチがその瞳を真っ直ぐ向けたまま話し出した。
「名無しさん」
「は、はい…」
名前を呼ばれた瞬間、私はやっと視線を逸らす隙を見つけ空をまた見遣った。
「俺色々考えたんだわ、あれから。」
「う、うん。」
私の視線はどうしても揺らいでしまう。
「お前は自分で、甘えてばっかだとか傷付けるとか言ってたけどよ、俺そんな風に思った事1度もねーんだわ。」
「……え」
「このままの自分じゃ駄目だってお前の言葉を聞いた時、それって何かよぉ、俺自分の事じゃねぇかってよぉ、思ったんだ。」
彼は真っ直ぐに私を見つめながら言葉を紡ぎ続ける。
「俺はお前に何かして欲しくて一緒にいた訳じゃねぇ。俺がお前と一緒にいたかっただけだ。けどいつの間にか、俺はお前に自分の気持ちを押し付けてたんじゃねぇかって。」
「……シャチ」
「だから決めたんだ俺。お前に何も求めねぇって。ただ……」
「……」
「名無しさんの事…好きでいてもいいか?」
「……え?」
どうしよう。
彼はこんな私の事をまだ好きだと言ってくれている。
今までの私なら彼を傷付けたくないと、それを受け入れていたに違いない。
しかし今私は、はっきりと彼に気持ちを伝えなければまた彼を傷付ける事になるのだろう。
私は彼に視線を戻し、自分の気持ちをちゃんと伝える事にした。
「あ、あのねシャチ。私は…シャチの気持ちには…答える事が出来ない…だから…」
「あぁ、いいんだそれで。お前の心が欲しいんじゃねぇ。ただお前が好きだっていう、それだけの事だ。」
「でも…」
「へへ、そんな顔しないでくれ。俺は嘘がつけねぇんだ。人にも、自分にもだ。」
そう言ってシャチは私の頭にぽんぽんと手を置いた。
「んじゃ、俺戻るわ。」
シャチは立ち上がりまた私に笑顔を向けてから船内へと戻って行った。
あぁ、何故…私は
彼の想いを
手放したくない…と
思ってしまうのだろう。
私は…狡い。